いくつか

日記

風邪を引いている。すこしだるいだけだ。それ以外に、書くべきことはほとんどない。おそらく、もっと楽しいことが現実には起っているが、それを書くだけのガッツを、現状、絞り出せない。

7月も終わろうとしている。23歳の夏というのも、このようにして過ぎていく。昨日は都内でデモが行われていたらしい。私は、具合が悪く、研究室を早退して、家で寝ていた。私の言いたいことがわかるだろうか? 全てはこのようだ。私はうまく集団に溶け込むことができない。きっと私は自分をチェックしすぎる。旧約聖書によれば、モーセが十戒を取りに行っている間、金色の仔牛の周りで踊っていた者たちがいたようだ。彼らはすべて豚のように屠殺された。神の功徳はかくあれかし。私はなんの話をしているんだ?

私は(今日はこの言葉を、乱用する欲求にあらがえない。なぜだろうか?)自意識過剰なヘンタイゆえ、自分の悪癖というものを列挙して、それをそのままほうっておく事ができる。それにしても、これら人格上の欠点をこそ、個性とは呼ばめ。私の文体は異常になりつつある。しかし、一体、どういった種類の人が、まともな文体で日記をつけようと思うだろう? 土佐日記――私はあなたのことがよく分かる。性別を変える、語り口を変える、書くべきことを変える、認識を変更する、これらはすべて、私達が語るときの悪癖について教えてくれる。私は狂気をなんとかして身につけようとしている。時間がたつに連れて、失われていくのがわかる。指先や体の内側から、アルコールが揮発するのに合わせて狂気が消え去っていく。私はまともになりつつある。人生はかくあれかし。

ところで、人生の指針として、精神薬を絶対に服用しない、ということを決めている。これは嘘で、子供のときに、半かけのパキシルを飲ませてもらったことがある。その時は、一日中、吐き気がひどくて、畳の上で溶けていた。
それにしても、多くの若者が、内なる狂気をうまくコントロールできずに、薬を服用している。彼らは不安を抱えており、薬はそれを和らげるように見える。彼らに本当に必要なのは、何もかもを指定してくれる神なのではないかと、私は思っている。ドストエフスキーが指摘したとおりだ。人間は自由に耐えられない。彼らは、実際には指示されることを求めており、それが報酬をもってあがなわれることを求めている。私は狂気に頼っている。