現在の進捗について

日記

およそ4年前、『捗る』ことがかまびすしく金科玉条に掲げられたことがあった。 捗ることは何よりも大切だとされ、数々のテックやハックが開発され、淘汰され、混交され、そしてあらまほしき型になろうとしていた。 少なくとも、今よりも捗る生活の形があり、私達はそれを目指していればよかった。 どんどん進んでいられた。コンセントはキャップをはめられ、ポテチは箸によって食べられた。 数億のクロスバイクが購入され、夏場には冷感シートが大量に売却され、日本中でハッカ油が浴槽に注がれ、 そして憎むべき相手の庭にはミントの種がひっそりと植えられた。

もちろん、この捗るという概念は、その後、濫用され、しまいには、『墓地が無料、今すぐ死ね』という主張がなされたあと、 この笑いによって更地になった茫漠としたインターネットを駆け抜けたのは、 我々が求めていたようなものではなくて、企業の利害関係と調整、そして広告費の バランスから産み出された、マーケティングであり、我々がそれの名前(確かステマというのだった) に気がついたときには、『捗る』なんていう言葉は、もう、おばあちゃんのぽたぽた焼きの裏にでも載ってそうな、 子供時代の懐かしい思い出の品になっていた。 パラダイムは、行き詰まったというよりも、単に消費しつくされてしまった。 もしくはその新鮮味を失った。 言葉の上での頻度依存淘汰と言ってもいい。ミームの適応度と言ってもいい。 過ぎ去ったことの説明に対して、我々がどのような道具を使おうと『捗る』は雌伏の時期に入ったことは変えようがない。

今となっては、我々は新しいパラダイム『コスパ』の元にまた歩みを進めようと思っている。 実際は、これはコストに比重を置きすぎた、貧しくなりつつある本邦の愛おしい自尊心とでもいうものなのだが。

さて、本来、私は、ハッカ油によって聖別された子供というのは、やはり、歩けなくなった憐れむべき男に対して、 ささやかな清涼感を提供したり、女に屈辱を与えている男たちに対して、 「この中で今ひやっとしていない者だけが石を投げなさい」などと言うのだろうか、と疑問を呈そうとしていた。

この段階になって、ようやく理解してきたのだが、この疑問はよくなかった。

進捗という言葉も、同じくらい濫用され、私が大学2年生の頃などは、大学生が喋る言葉と言ったら、

程度のものだった。 純粋に、当時の大学生の名誉のために言っておくが、これらは、現代のバカ犬がやるたぐいの無駄吠えよりは、まだ人間じみていた。 私達は、これらの文に、曖昧ではあるが、使用に耐えるだけの意味を与えていたのだから。 (と言っても、文明人として、犬の名誉も重んじておこう。 現代のバカ犬が無駄吠えをするのは、犬が内在的・生得的にバカなのではなく、我々人間が、人類史が始まってから今までという とんでもなく長い間に、彼らがきっと持っていたであろう−実際に、人畜になっていない獣たちは明らかに持っている−−野生の文化を 徹底的かつ不可逆的に、完全に破壊したことに起因するだろう。 したがって、我々がバカ犬の無駄吠えを非難するとき、我々は 我々の行為を過去の不正義として扱っていることになる。)

具体的には、先に述べた文たちが持つ意味とは、

となる。例えば、

「進捗どうですか?」(天気がとてもいいですね)

「ウェイ」(ウェイ)

「起床即魔剤マ!?」(朝、起床してから、すぐに日本ではアサヒ飲料が販売している、アメリカ、モンスタービバレッジ社が製造・販売する清涼飲料水をあなたが飲んだという情報は本当ですか?)

「マ」(本当です)

「アドマ!?」(それは得をするという情報は本当ですか?)

「ウェイ」(ウェイ)

上記の会話を読めば、すでに、あなたたちも、当時の大学生が、20歳にしては相当に知的な会話をしていたことがわかるはずだ。

このことを今一度よく知らしめる描写の一つとして、私の兄が、大学構内、経済学部の研究棟でエレベーターを待っていたときのことがある。 兄の隣には、青いカバンを背負った20歳の大学生がいた。髪を茶色に染めて、パーマを当てて、耳には挟むタイプのイヤリングをしていた。 彼はその髪をつまんだりひねったりしながら、もう片方の手ではスマートフォンをいじっていた。

そして、数十秒の後に、エレベーターが到着し、ぴーんという音でそれを知らせたのだが、それに対して、大学生は

「ウェイ」

と応えたのだった。

この短い記述でも、当時の大学生が、マルチタスキングができるという能力の高さのみならず、 エレベーターという無機物にも、コミュニケーションの主体としての位置を授けるという、 極めてポストモダン的かつ、交流主体のクライテリアについて確固たる自分の主張を持っている上に、 それを実践しさえするという先進性が見て取れるはずだ。

私の日常とは、このようなたわごとを考えることに費やされている。