事実上のものとやらについていくつか

日記

しばらく時間があいた。梅雨があけ、夏がやってくる。ただゆく川の水が変わることなれば、なんにかはせむ。とは言っても、単に時間がすぎること、地球の軸が太陽光線に対して少しだけ傾いているだけのことなのに、徐々に気温が変わっていくということこそ、ものぐるほしけれ。

仕事は順調に進んでいる。それ以外に、僕の生活について語るべきことは、特に無いように思われる。ところで、本来、ここにある生、まるごとの自分に関して、生活と叙述することは、あまり奨励されないはずだった。

もちろん、違和感を文章に埋め込むことに関して、私は随分進歩してきた。

どこかのサイトで、ヴァーチュアルな存在−−例えば、VTuberだったり、Twitterの存在であったりが−−孤独を助ける一助になっているとする主張を見かけた。私はここまでならある程度賛同する。ごく何人かは、キャラクターを姥皮として用い、肉体を持つことにまつわる厭わしさから離れることができている。例えば、人種や外見がある程度剥ぎ取られた状態にあっては、XX人だから、ブスだからという理由では非難されないし、ボイスチェンジャーの技能向上にも期待している。

一方で、こういった、現実からいくつかの要素を捨て、そして現実ではありえない要素を足すことによって作られた存在が、すべての孤独を解消するとも、私には思えない。例えば、非モテの人々が、VRchatによって、孤独を埋めるといったことで、非モテの『暴走』を止めようというのは、僕にしてみれば、お笑い草だ。
というのも、少なくとも一人の非モテ(僕のことだ)が求めているものは、代替物ではなく、まさにあなた達、市井でサーティワンのアイスクリームを食べるようなあなた達が持っているものと同種のものだからだ。恋人がいるという権利−−それでさえ私たちの要求を誤解している。これは権利ではないのだ。権利よりもっと縛られていないもの。権利が、自由主義が、そして自律の概念の下支えがなくても存在するもの。時折、詩人によって愛と僭称されるもの。おそらく、それは、近代における情報拡散に伴い、『誰もが本来持てるはずのもの』だと取り違えられたものだろう(誰もが孤独でなかった時代などない、と私の友人の一人はいつか言った)。私達はまさにそれを求めている。あなたがまさにそれを手にした空間−−現実−−と同じ場所で。私に私と私のエゴがぴったりくっついた状態で。
翻って、あなた達は、子供の無邪気さで、ヴァーチュアルな空間は自由度が高く、個性が選べて、云々、といった話をするが、それは論点を外している。ヴァーチュアルな空間の自由度が高くなればなるほど、それは単に、私が現実にいないことの傍証にしかならない。ポリゴンの少なさは、そこが単なる代替物に過ぎないことの証明でしかない。個性の選択可能性は、現実のわたし、この剥がれないわたしというものが、いかに選択されないかの傍証でしかない。乱交現場で、一切指を触られないときに感じる種類の、消え去りたくなるような孤独感。あなた達の何人かはそれを知ることになるし、私達の何人かは、あなた達にそれを与えたいと思っている。