アナルに花、ルイージにはクリボー

日記

5/28日に書いた記事について、専門家の意見がいくつか見られた。喜ばしいことだと私は思う。一例として、このブログ記事へリンクを張っておく。この記事を選んだ理由は、私はこのブログの著者に何らかの恩義があるように思われるからだ。


過去の記事を読み返して、私は禅についてほぼ学習をしていないにも関わらず、禅について語ってきたことに気がついた。これは許されないことだ。私は急いで次の本を読んだ:

実は、鈴木大拙の本を読んだが意味不明だったので、『禅問答入門』を読みし後に再読した。やはりよくわからなかった。私の知性レベルも推し量れるというものだ。


今日、東雲めぐが『人魚姫』のミュージカルをやっていた。東雲めぐはかわいい。脚本と演出はもうちょっと頑張れという感じだが(悪役の動機が「何でもいいからめちゃくちゃにしたいぞ」レベルだったり、キャラクターがしゃべるときにちょっと浮いたりする)、最初の挑戦としては相当できがいいと見ていいだろう。あと二回あるようだ。オタクは見てオタク2.0になれ。


さて、先日の日記で、私には富貴という同級生がいたとを言った。実はそのような同級生はいない。私は嘘をついていた。誰だって嘘くらいつく(大前提)。私は誰かである(小前提)。私は嘘をつく(結論)。あなたのお気に入りの論法である。一方で、彼女について私はいくつか思い出した。それらを忘れてはならなかったことも。


アナルに花、ルイージにはクリボー

もう一度言っておくが、富貴という同級生は存在しなかった。従って、彼女の名前には任意性があり、私は彼女のことを笹崎と呼ぶことにする。


笹崎は三年生の秋に新紺屋小学校へ転校してきた。髪が短かった。黒板の前で七分丈のジーンズをはいていた。上履きは前の小学校のものだった。教室の東から日が差していた。それが笹崎の髪を緑色に見せる。彼女の瞳を薄い茶色に見せる。肌を光の色にする。そして彼女が自己紹介をする。クラスの誰よりもかすれた声で。彼女はドハマリするのにちょうどいい子だったし、実際、クラスの男子はアホ面並べて笹崎にドハマリした。女子のうちの何人かもドハマリした。私は笹崎の雑巾をうっかり間違えて使った。「笹崎ごめん雑巾ミスった」「別にいいけど」。すべてはこのささやかな会話のためだった。すべてがうまくいけば、私は彼女で精通していただろう。

結局、席が隣になった杉本がなんとなくいつも話しかけ、なんとなく彼女を独占した。「昨日の『ガリレオ』見た?」とか「オレンジレンジのあれいいよね」とかほざいていた。杉本なんとなく死なねえかなと後ろの席の私は思っていた。これが笹崎が転校してきて三ヶ月目までのことだ。彼女の母親の仕事の噂が出回るまでのことだ。


どこからこの噂が流れてきたか知らない。笹崎父の仕事は銀行のなんかだった。これは全く問題なかった。笹崎の母親は現代芸術家をしているらしかった。彼女は、年に一回、乃木坂にある新国立美術館展覧会に出品していると誰かが言っていた。これは問題があった。

当時、甲府市の女がやることと言えば、蟻の巣にお湯を流すくらいしかなかった。夫を持つ女たちはみんな、蟻の巣にお湯を流すことで日々の倦怠と戦っていた。シングルマザーの女たちも、眠れない夜は蟻の巣にお湯を注いでいた。悪い夢と都合のいい 計画 ( プラン ) を細かくちぎって、浮かんできた蟻たちにくくりつけて流そうとしていた。忘れようとしていた。本当の話だ。そのような文化圏に、現代芸術家である笹崎母が現れた。端的に言えば、彼女の仕事は我々の認識の埒外にあった。

その噂はどこかから出てきて、我々の頭に着実にしみこんでいった。ドミナリアをファイレクシアの黒い油が汚していったように。

ある十二月の寒い日、クラスの男子で集まって、田之口の家に行った。彼の家にはウィンドウズXPがあって、自由にインターネットが使えた。普段、我々はそこで『スーパー正男』とか、蟻の巣にお湯を入れるゲームとかをしていた。

その日は違った。我々は笹崎の母親の名前をこっそり盗み出していた(担任をからかって遊んでいる間に、ちょっと机の中をのぞいたのだ)。それをYahoo!の検索窓に入れた。いくつかページを開いた。笹崎によく似た女性がギラついた笑みを浮かべていた。

誰かが「もうやめよう」と言うのを我々は待った。これやばいよ、と言うのを待った。 してはいけない ( しちょし ) というのを待った。誰も言いはしなかった。田之口がリンクを開いた。別のウィンドウが出てきた。

笹崎□□の作品

と書かれていた。デジカメで撮った写真が、何枚か粗雑に配置されていた。そこには全裸の少女が逆さに置かれていた。正確には、彼女は前転の途中で止められたような格好で壁に縛り付けられていた。尻が見えた。尻の穴には花が活けてあった。彼女の顔も見えた。それは娘の顔だった。

つまり、そこにはひっくり返された笹崎がいた。そして尻の穴に花が刺さっていた。一枚目は一輪の百合で、二枚目はタンポポの花束だった。バラのものもあった。パンジーもあった。ひまわりはかなりしんどそうだった。シロツメクサもあった。誰も何も言わなかった。田之口は最後までスクロールした。

新年 現代美術展覧会 2008年1月12日(土) 新国立美術館 2F D で展覧会に出品します

間。

遠くで犬が吠える。背の高い方の井上が「なんでだけなんだろう」と口を開く。私は「確かに」と言った。その疑問は適切に思えた。我々は口々に、別のものでもいいはずだ、野菜でもいいじゃん、と言った。確かに。私たちは盛り上がっていった。リストアップを始めた。誰かがどさくさに紛れてウィンドウを閉じた。おそらく、みんなそれを見ていたはずだった。野菜の名前にそれを埋没させようとした。

こうして、我々は関東の野菜連合軍がどうにかしてくれるのを待った。そんなことは起こらなかった。私たちは見てしまったものを忘れようとした。五時の鐘が鳴った。甲府市では五時になると防災無線から『ふるさと』が流れた。そのとき子供の時代の終わりを告げる。夜の世界が忍び寄ってくる。私たちは帰っていった。杉本は誰よりも早く帰った。思えば、私たちはもっと早く逃げておくべきだったんだろう。


2008年が始まった。甲府の冬は雪の降らない冬だ。単に世界が冷たくなるだけの冬。私は笹崎に年賀状を書いた。ゲームでもしようと書いた。笹崎からは簡素な年賀状が届いた。何が書いてあったかは思い出せない。少なくとも何かは書いてあったはずだ。

 冬休みが終わった。大掃除の時、笹崎と話した。私たちは椅子の脚を拭いていた。「ゲームすんの」と笹崎は聞いてきた。椅子の脚を拭いた。次の椅子に移る。「する」と私は答えた。椅子を拭いた。埃が雑巾についた。「どんなのすんの」次の椅子に移る。「マリオ、DSのやつ、去年出たやつ」「つまんないんじゃないの」「おもろいよ、二人でできる」「うちDS持ってない」。兄貴も持ってるから借りる。借りれんの。兄貴はモンハンばっかりやってるから。いつ遊ぶ。いつでもいいよ。来週かなあ。マジ? じゃあ家来いし。わかった。

 その週末は笹崎の母親の展覧会だった。我々はなんかもう悪ノリしていた。みんなでお年玉の残りを出し合って、八百甲に行ってゴーヤだのナスだのを買った。トマトも入っていた。「花と取り替えてもらうじゃん」と誰かが言って、誰かが笑った。杉本が「おれはいいよ」と言っていた。


展覧会には、結局、私だけ行くことになった。年の離れた兄が東京の大学にいたというのが理由だった。もちろん、これは正確には理由になってはいなかった。小学生の理論というのは、実際のところ、連想ゲームに近い原理に支配されている。

私は親に黙って家を出た。明け方だった。早く出過ぎたのはわかっていた。甲府駅に着く頃には太陽が上がっていた。空気はだんだん白から青に変わっていた。切符を買って鈍行に乗った。甲斐大和で特急が私を追い越すのを待った。大月で半分くらいの人が富士Qへの電車に乗り換えた。高尾で京王線に乗り換えた。新宿で地下鉄に乗った。本当に多くの人がいた。私は地面を見ながら歩いた。野菜を持って歩いているのが馬鹿みたいに思えてきた。実際に馬鹿でもあったんだろう。

乃木坂の美術館にはまばらに人がいた。何かわからない印象派の展覧会が開かれていた。私は受付で、現代美術の展覧会の場所が知りたいと言った。女性は二階だと言った。チケットを持っているかと訊いてきた。無いと答えた。彼女は頷いた。首をがりがりとかいた。そして私に青いはがきを渡した。

「余るんだよ」

と彼女は言った。今思うと、あれは親切心であったような気もする。私はエスカレーターに乗った。それが私を単に運んだ。

セパレータで区切られた一角に、笹崎はむき身で固定されていた。どんな表情もしていなかった。アナルには南天の花が刺さっていた。正月だからなのだろう。ベージュのシールが性器を覆っていた。アナルのしわの数まで数えることができた。母親らしき人と背広を着た男が、笹崎の前で話していた。こんな会話をしていた:

しばらく私はそこに立っていた。笹崎の横にあったアラームが密やかな音を立てた。彼女は倒れ込んだ。南天を抜き出して、段ボールでできたゴミ箱に捨てた。黙ってしゃがみ込んでいた。私は何か話してくれと思った。何か別のことを。何の含意もないことを。笹崎は私を見る。

間。

「ルイージがさ」

と私は言った。ルイージが出せるようになったんだよ、DSのマリオで。セーブデータを開くときにRとLを押しながら開くんだ。笹崎はそうと答えた。どんな顔もしていなかった。アラームがまた鳴った。笹崎は新しい南天の枝を取り出して、アナルに刺した。壁に向かって前転をして、さっきと同じような体勢になった。


わたしは、肉屋の連中に、屠殺の仕事をする人間は、人も殺せるのではないかと訊いてみたことがある。彼らはそんなことはないと答えた。「動物を屠殺するときも、そいつの目を見ないようにするんだ」彼らのひとりは、自分が手を下した動物の肉は食べることができない、と言った。また、自分の知っている牛は殺せないだろう、乳を搾ったことがあればなおさらだと、そう言った者もいる。そこでわたしは、ビカリオ兄弟が自分の飼っている豚を屠殺していること、そして彼らが名前で区別できるほどに豚に馴染んでいることを、思い起こさせた。「確かにそうだ」と一人が答えた。「だが、いいかね、彼らは人の名前でなしに、花の名前をつけていたんだ」

ガブリエル・ガルシア=マルケス著、野谷文昭訳(1997), 予告された殺人の記録, 新潮社, p63

私は展覧会の会場を出た。笹崎につけられたタイトルを見なくてよかったと私は思った。あるいは、これもまた臆病な選択の一つだったのかもしれない。


私に展覧会のはがきをくれた女性が声をかけた。すでに私服に着替えていた。彼女は「これ見てくれば」と言って、展覧会の半券を差し出した。隣でやっている企画展のものらしかった。モネだかマネだがドガだか、とにかく二文字のカタカナが書いてあった気がする。彼女の手首にも文字が書いてあった。ファックマシーンと読めた。

「ああいうの見ると気が滅入るでしょ」

と彼女は言った。私は彼女を見た。その言葉はどんな意味でも正しくないように思われた。少なくとも、私以外の人は満足げに見えたからだ。私は半券を受け取って、「どうも」か何か、そういう類いの言葉を述べた。

私はその展覧会を見なかった。見ても無意味だと思った。

もし、私がそれを見たら、そこにいた人たち、絵画の外から絵画の中にまで至るすべての人たちが笹崎に連帯し、何らかの象徴的なポーズをとるのなら、私はひょっとすると見たかもしれない。それによって、笹崎はある種の象徴にまで作り替えられる。笹崎はそれを、拡大して希薄化した自己として認識できるはずだった。プロ格闘ゲーマーのウメハラが言うように、祭式によって、人が人以上の存在に作り替えられ、しかも全く無傷で 現世 ( うつしよ ) に戻ってくるということもあるのだ。これは神話的な世界への一時的な召喚でもある。しかしそのようなことは起こらないことを私は知っていた。展覧会はそのためには作られていない。私は地下鉄に乗った。それは私を単に運んでいった。

仲のいい友人とやっているSkypeのチャットルームに、「どうだった?」と井上が投稿していた。私は返信しなかった。杉本が自宅に電話をかけてきて、「見に行ったの?」と訊いた。私はそうだと答えた。杉本は黙って、それから電話を切った。


笹崎は次の月曜、学校に来なかった。彼女は二日休み、三日休み、そしてその次の月曜日に転校した。私は半ば自明のことのようにそれを受け取った。どんな寄せ書きも間に合わなかった。彼女は消え去った。

次の席替えの時に、笹崎の机が運び出された――私が運び出した。なんの落書きもない机だった。これで笹崎のことを忘れるんだろうと思った。教室には笹崎のどんな痕跡も残っていなかった。雑巾でさえもなくなっていた。


COVID-19、いわゆる新型コロナウィルスの拡大防止に伴い、大学がずっと閉まっている。東京にいる必要も無いので、私は山梨の実家に帰省している(これは嘘で、私は相変わらず薄暗い1Kのアパートにいる)。

甲府市の娯楽は増え、今や、お湯を蟻の巣に注ぐ者はほとんどいない。伝統芸能の継承という名目で出ている補助金を得んがためにお湯を沸かしている女が、ほんの少しいるだけだ。

実家の押し入れには3DSがしまってあった。バッテリーがへたっていたが、充電し続けていれば遊ぶことができた。私はNew スーパーマリオブラザーズを起動した。全クリしてあるセーブデータがあった。LとRを押したまま選ぶと、ルイージの声がした。

ゲームが始まる。青い空と緑の大地が広がっている。ルイージが定められた声と顔で現れる。私は画面を見つめている。結局、笹崎はこのゲームをやったんだろうかと思った。ルイージを出すことがあったんだろうか。私は方向キーを動かす気力が無かった。

ルイージはずっと立っている。私は笹崎に話しかけようとする。何を話したらいいのかわからないことに気がつく。笹崎の顔を忘れていることに気がつく。思い出せなければならないことにも気がつく。ルイージがこちらを見ている。クリボーに当たる。定められた動きでルイージが消える。残基が一減る。そして新しいルイージが現れる。それだけのことだと思おうとしてるんだ。

君だったらどうする。



過去、現在、もしくは未来において私が言ったように、テーマに沿って書かれた文章を読む楽しさは、検死解剖とその後の焼肉パーティーの楽しさと同程度だ。我々が何の肉を焼くかは言うまでもない。