家ならなんでも

日記2.0

これは存在しなかったインタビューの話だ。死にかけのホームレスに「何が欲しい?」と尋ねた女がいた。ホームレスは「家」と答えた。どんな家がいいんですか?と女が訊いた。 家ならなんでも ( エニー・ホーム ) とホームレスは答えた。彼が家を手に入れたのか、私は知らない。


オタクへの連絡

ページ番号バグってるぞ

「11ページしかないのに、55ページあるように表示されています。たぶん、ページ数と総記事数を間違えています。割り算はできますか? 殺すぞ」というコメントをいただいた。その通りであり、これは直ちに修正された。


さて、このミスは私の責任である。私の無知が招いた問題でもある。悪いことに、私は自分自身の無知を認められない。実際は顔真っ赤にしてキレまくっていた。どうしてこっそり教えてくれなかったんだ。ちょっとくらい優しくしてくれたまえ! 私はキレキレにキレていた。握りしめたマウスが壊れた。水を飲もうとしてマグカップを割ってしまった。私はやけくそになってディスプレイを殴った。パソコンを破壊した。冷蔵庫と電子レンジを破壊し、ドアを破壊して家を破壊、足立シティを破壊し、都庁、行政区分、国家の概念、リバイアサンとその後の原初状態をも破壊した。そして、破壊者には極めてありがちなことなのだが、破壊が破壊のみをもたらすことを知った。破壊には何の副作用もなかった。

私は全てを いちから ( アブ・イニシオ ) 作りだし始めた。光を作った。細かな粒子から水素やヘリウムが組み立てられた。時間の概念はひとりでにできあがった。砂の一粒、がれきの一片から初めていった。海ができ、大陸ができ、特にドイツが生まれた。そこの生物はクオークを食べて生きていた。全てが元通りになり、毛のない猿が跳梁跋扈し始め、そして同じように毛のない猿である私もここで顔を真っ赤にしてキレている。

古代インド哲学において、輪廻とは複数の階層をなすが、最も外郭の輪廻とはおよそこういうものだ。


ブログ更新する通知流せよ

「おまえいつ更新するの? 読んでもらえると思ってるの? Twitterでもしろよ」というメールをいただいた。残念ながらTwitterはやらない。気に入らなければ、私に迷惑メールを1000通送れ。私のメールアドレスを使って違法ポルノサイトに登録しまくれ。おまえは私を苦しめようと思ってそうするのだし、私は実際に苦しむだろう。

一方で、いつ更新するのかの手がかりを与える方がより公正だろう。以下が更新予定だ。確かに私は気まぐれで、嘘つきで、性格が中程度に悪い。しかし、この予定を守ろうという意思はあるし、これは本当のものだ。

となる。それ以降のことは未定だ。

なんであれ、このブログへのアクセス数は順調に減っているのだろう。私は忘れ去られるのだろう。ブックマークに登録された『みそは入ってませんけど』もいつの日か konmari'd ( コンマリされる ) のだろう。それは止めようがないだろう。これはこういうものだ。


文章でカネを稼げ

「とっととカネをもらって書け」というツイを見た(私はツイのオタクを何人か監視しているし、『バベルうお』の翻訳も購入している)。


「俺も危ないところだった!! 作る人間が評論家じみたことを言い出すのは衰弱の兆候だ!!」

(作:久部緑郎 画:河合単、『らーめん再遊記 1』、2020、 小学館)


一方で、私はまだ文章によってお金を得る段階には入っていない。シリアスな仕事にはなっていない。簡単に言えば、投稿作品はもうめちゃくちゃに落選する。私は毎日ゴミを量産している。もし、私の文章が芸術と呼ばれるなら、私が毎日ひり出すクソも私は芸術と呼ばねばなるまい。

思うに、私の文章における本質的な問題とは、私があるラインをまたげないことに起因する。そのラインは『技術を行使する覚悟』とでも言うべきラインだ。それはクリシェや定型を振るう覚悟でもある。想定する読者層を下げるという覚悟でもある。夜な夜なこっそり密輸したテクニックとドラッグで、あんたたち全員をこっそりだまして、裏で「あいつら馬鹿だから女ァ出しときゃ喜ぶんすよ」という覚悟でもある。

例えば、次のような設定を考えよう。


2035年、ゲノミクス、生物工学、そして合成生物学が極めて高度に成長した結果、日本では子供が生まれるたび、両親がバイオゴリラをプレゼントし、そのバイオゴリラと一緒に育てることが当たり前になっている。これには極めて理解されうる理由があった。2035年において有名な警句も次のように言っている: 子供が生まれたらバイオゴリラを買いなさい、なぜなら

  1. 子供が赤ん坊の時、ゴリラは子供のよき守り手となる
  2. 子供が幼いとき、ゴリラは子供のよき遊び相手となる
  3. 子供が少年期の時、ゴリラは子供のよき理解者となる
  4. 子供が青年になったとき、ゴリラは強い
  5. 暴漢に襲われたとき、ゴリラは強い
  6. バイオゴリラは強い
  7. 飼い主が死ぬとき、バイオゴリラも死ぬ(バイオゴリラはそのような装置である)
  8. ゴリラの目は優しい
  9. バイオゴリラは生態系を汚染しない(彼らは先天的に不稔である)

一方、佐竹の両親は――一部のアジア人は常にそうなのだが――貧しかった。彼にバイオゴリラを買ってやれなかった。当然、佐竹はいじめられる。かなりハードコアないじめだ。バイオゴリラ用の食事を食べさせられたり、「あのバイオゴリラを使って五分で射精しろ」と言われたりする。賢治のバイオゴリラにボコボコに殴られて顔がバナナみたいになる。佐竹は何も言い返せない。佐竹がいじめられるのは、彼が貧しいからだ。努力と才能によって誰でも花開ける世界においては、世代と社会構造に起因する貧困は隠蔽される。そういうものだ。

そんなとき、彼はマングローブの森でゴリラの赤子を見つける(舞台は沖縄でいいだろう)。それは、群れからはぐれてしまった天然物のゴリラ、すなわちナチュラルゴリラだった。彼はそのナチュラルゴリラにルーシーと名付ける。ルーシーは佐竹に似て臆病で、疑い深く、そして愛を知らない。

これからどのようにストーリーが発展していくかは明らかだろう。

2、3の必要なシークエンスを経て、佐竹はルーシーと友好関係を結ぶ。絆が築かれる。賢治のバイオゴリラを片手でねじ伏せる。ナチュラルゴリラは純粋なゴリラ、バイオゴリラはまがい物のゴリラだ。どちらが強いかは火を見るよりも明らかだ。ルーシーと協力して強盗を縛り上げたりする(この強盗がやはり貧困層に属することを明示的に書くべきだ)。

このようにしてルーシーと佐竹は有名になる。そして、突然、マニラ地下に潜伏するゴリラ過激派のゲリラ組織の頭領デリラとの邂逅がある。彼は佐竹が捕まえた強盗の世話役だった。彼は佐竹に目を覚ませという。バイオゴリラは不倒に搾取され、単に人間のための装置となっていると言う。彼らの生物としての、生命としての権利は剥奪されていると言う。このような蛮行と、より陰惨な蛮行の間には毫ほどの違いも無いだろうと一喝する。佐竹は悩む。ルーシーとほかのバイオゴリラが本当には意思疎通できていないことを知る。バイオゴリラの発声器官と腱は発生学的に改竄されていて、ある種の表現が構造的にできないようになっている。

最後に、主張の違いや凶弾がある。無限のバイオゴリラと無限のタイプライターを使い、全ての主張をねじ伏せるゲーテが出てくる。クライマックスではなんか適当に明かされるべき謎がいくつか明かされる。例えば、日本において、受精卵は二細胞期の時にバラバラにされ、一方が子宮に戻され、もう一方が遺伝子改変を経てバイオゴリラになっていることが明かされる。(このような、『実は人間であった』というツイストは極めてありがちである)。とどのつまり、なんか仲良くしようねという結末になる。

そういうものだ。


私はこのような小説を書くことはできる。それは原理的に可能であるというばかりではない。私は実際に書くことができる。プロットを適切に配置し、三幕構造を構築し、キャラクターにいくつかの矛盾と相反する動機を与えることもできる。悪役を、佐竹の望んでいた――そして、徐々に望まなくなっていく――理想型に形作ることもできる。

さらに、なんとなく川端康成っぽさを入れれば言うことはない。最終章でバイオゴリラの死屍が積み重なり、それに雪が降り積もり、さらに死体が積み重なる様子を静謐な描写とやらで書けばいいだろ? おまえにも私にもそれができる。

しかし、このような小説は単に無意味であるばかりでなく、悪趣味でもある。少なくとも私はこのような技法で小説を書くつもりはない。私には明確な理由が説明できない。単に、私の心が反抗する。このような小説は無意味だと言う。露悪的だという。少女の肛門に花が生けられるよりもずっと露悪的だ。


多くの人間が、三幕構成やキャラクターの葛藤、プロットをゆがめる方法とシーンの前後における喪失と獲得の構造を頭で理解している。私もある程度まではこの学問分野を勉強した。

そして、私はあらゆる物語を精査するようになった。どの映画を見ても、私は検死医として振る舞うようになった。シーンの関連と統合が常に頭を駆け巡っていた。ショットの裏側には、『物語の起伏』とでも言うべきパラメタがあり、それがうねりながら徐々に頭を持ち上げるのが分かった。それが理解できた。これは喜びでもあった。私は実際にこの理論を運用することも可能になっているだろう。あなたもだ。


こんな話もある。

あるガキが流れ星を探していた。ガキAとでもしよう。願いを早口で三回言う練習もしていた。ここから連れ出してくれ、ここから連れ出してくれ、ここから連れ出してくれ。ここじゃないどこかに。もっといい場所に。少なくともほこりっぽくない清潔な場所へ。

それを隣で聞いているガキもいた。ガキBとでもしよう。このガキBは早口言葉の練習はしなかった。彼/彼女(ガキBの性別を俺は忘れてしまった)は微積とか英語とかロシア語とかを勉強した。黒色火薬を集めて鉛筆のケツに詰めたりしていた。ガキBは大学に進み、NASAに入社した。ロケット工学の分野で設計をしながら、ヒューストン大学で航空力学の博士課程に進んだ。その間も、ソフトウェア制御を同僚から教えてもらっていた。組み込みエンジニアとして食っていけるくらいの技術を身につけた。彼はそのうちテスラに引き抜かれた。スペースXへ入った。何年も研究が続いた。資金が底をつきそうになった。彼の食事は、大体ビスケットからグレープフルーツだった。時折のパーティでは、彼はひよこ豆のペーストを買っていた。

長い研究の後、初めてのロケットを飛ばすことになった。彼が設計し、彼がコアのソフトウェアを書いたロケットだった。それが台座に置かれている。どちらに飛ばすかも彼が決めていた。頭には何かの衛星が載っていたが、ガキBはそれに興味がなかった。ボタンが押される。轟音とともにロケットが打ち上がる。夜の方に向かって飛んでいく。成層圏を抜ける。大気をかき分け、オリュンポスの神殿を横切り、大気の精霊の手が届かないところに進んでいく。

そこで彼のロケットは壊れる。プログラムはクラッシュする。制御が失われ、ロケットは頭を垂れる。ゆっくりと墜ちていく。地上ではみんなが混乱に陥っている。もしかしたら、オリュンポスの平穏を脅かした罰なのかもしれない。パニックの語源とは陽気な精霊のパンだ。

ガキBはうつろな目で空を見ている。ロケットが墜ちていくところを想像している。空の向こうを見定めようとしている。もちろん、地球は丸く、二十六キロ先までしか見られないことを彼は十分承知している。しかし、彼はロケットに何が起こっているのか分かっている。大気を圧縮し、逃げられなかった熱がロケットの頭を焦がす。それがまばゆく輝く。彼が子供の時に過ごしていた場所から、その光ははっきりと見える。ガラスも張っていない窓から、一人のやつれた女がその光を見ている。女の口が動く。子供の時からずっと練習していた形で、子供の時からずっと唱えてきた祝詞で、残酷なまでになめらかな発音で――ここから連れ出してくれ、ここから連れ出してくれ、ここから連れ出してくれ。子供たち二人の祈りが叶った後、この世界にあと何が残っているだろう?


私はこのようなプロットを――私は工業的という言葉を使いたくはない。工業製品にはそれ特有の神秘がある――どういう言葉で名付けてもいい。どう呼んでもいい。私はこの種類の物語は退屈だと思う。単に退屈なのだ。


この理解できるということ、この倦怠感、私はそれの向こうへ行こうといている。私はもっと下手に日本語を使ってみたい。もっと物事をゆがめさせてみたい。文章の単調さを文章のリズムへと変換しなければならない。私の思想もそれに併せて変わっていかなければならない。知識も不足している。技術も不足している。まだ私の文章は二万キロも進まなければならない。

私は未だに文体を探している。自分とぴったり同じサイズの文章を探している。余計な技術がそぎ落とされた語り。原始的で圧倒的な筆跡。そこではメッセージと表現とプロットは一つだろう。それは信念ということもできる。おまえもそれを探しているかもしれない。どこかからきっとインタビューアーがやってくるだろう。そいつは「どんな信念がいい?」と聞くだろう。これだけははっきりさせておこう。我々は「 信念なら何でも ( エニー・ビリーフ ) 」と答えてはいけない。