『君の膵臓を食べたい』はヤバい。『植物図鑑』よりヤバい。

先日の日記を更新した。

ネオ日記

今日は晴れだった。

情報化社会と権力の解放が極限まで進んだ世界においては、個人のプライバシーは消失する。(『個人のプライバシーがない』とは非文めいているが)我々は他人の全てを知ることになるし、逆に――もしくは、その対価として――他人に全てを知られることにもなる。

そのような時代における日記――ネオ日記――に書かれるのは、皮肉にも『今日は晴れだった』程度の事だろう。それ以外の情報は、全て完全に外部へ記録される。今日は晴れだった。その光が私の瞳孔に刺さった。そのまぶしさ、私の光彩が絞られる痛み――私的で、どうでもいいもののみが、我々の自由に扱える情報として残される。

このような観点からすると、ネオ日記時代の文学は極めて牧歌的になり得る。


今後の予定


君の膵臓を食べたい

これマジでやばくて、死ぬ。マジでやばい。高校生の時に『植物図鑑』を読んで以降いちばんの衝撃を受けた。エポックメイキング過ぎる。天動説レベル。草も痛みを感じるレベル。半端ない。ぶっ飛んでる。

だって女めちゃくちゃ都合いいもん。ヤバすぎる。女チョロすぎ。物語の構造がどうとか関係なく完璧に装置ですごい。ネクラで厭世的で読書家でちょっと気の利いたことの言える僕に突然ぐいぐい来る女というだけでもかなり厳しい設定だし、しかも最初から死ぬことが運命づけられてる。マジでやばい。これすごい。ガルシアマルケスの『予告された殺人の記録』レベルに死ぬことが予告されてる。これにはサンティアゴ・ナサールも苦笑い。

話のあらすじがホントに「ネクラな僕に突然ネアカな女が押しかけてきた。ネアカは僕のことを特別視してくれる。しかもそのうち死ぬし、僕はマジで人間的に成長できる。しかもネアカのダチといい感じになる。マジ人生最高。辛いこととかマジゼロ」みたいな感じですごい。スピード感がある。

よりによって、最後の方で、

たくさん冗談を言って、たくさん笑い合い、たくさん罵倒し合って、たくさん互いを尊重し合った。

とか出てくる。ヤバすぎて晩飯食うの忘れるレベル。たくさん互いを尊重し合うってなんだ? というか、互いを尊重し合うってなんだ? 誰か、おれの前で互いを尊重し合って見せてほしい。私は君たちに手をつなげとか、丁寧な言葉で議論を重ねろと言っているのではない。私は互いを尊重し合ってみせてほしいだけだ。笑い合ったり、冗談を言ったり、罵倒するのと同じようにだ。見せたまえ。早く見せたまえ! 互いを尊重し合って見せたまえ!


普通の人間は、こういう設定で話を書くと、途中で頓挫する。なぜなら、全ての愛が――例外なく全ての愛が――変容していくものであり(大前提)、この種類の設定は最初が最も完成された愛であるため(小前提)、時が進むにつれて、どこか滅びていく雰囲気が漂ってしまうためだ(結論)。美しい死体と結婚をした場合、新婚生活における最大の困難は腐敗だ。従って、プロットは極めて短い期間(『僕たちは、忘れられない夏休みを作る』とか『ずっと冬でいいのに』とかバカみたいなキャッチコピーがつく)でしか成立せず、ずっと冬でいいのにと登場人物は言うが、作者の方は「こいつら正月になったら殺し合ってどっちか死んでくれると助かるんだよな」と思っている。

そして、この『どっちか死んでくれるとありがたいんだよな』を実地でやるのが『君の膵臓を食べたい』だ。死は避けられない。人は死ぬ。そういう時間スケールでなくヒロインは死ぬ。こうなるともうやりたい放題だ。甘々ラブストーリー書き放題だ。だって死ぬんだもん。女は徹底的に都合よく書かれる。なぜなら死ぬからだ。死人に口なし。死んだ後で、墓場で突然「私は性的に搾取されていた」と言い出す心配はない。そういうわけで、ヒロインは主人公の精神的充足・精神的成長・子供の時のいい思い出を生成する装置として機能する。


『植物図鑑』は女が男を拾って一緒に雑草を食ってセックスをする、という話だ。男が完全に都合よくて完全に装置で、完全に家父長制を内面化していて、完全に終わってるが、ともかく最後にセックスをするところだけが救いだ。少なくともセックスをすれば、まあこの男性型肉機械が「セーフセックスはたいせつだから」と道徳的なところを見せてコンビニでコンドームを買ってくることを加味しても許されうる展開にはなる。少なくともこいつらはセックスをする。要するにこいつらは動物で、まあ肉欲の宴ってところだ。そのような愛は我々にも窺い知ることのできる愛で、つまりは冷やかせもする。

しかも『植物図鑑』はどうやら二人の関係は長く続く。少し前のロジックを持ち出すとしよう;最高の愛は衰微を避けられない。我々はこれを起点に攻められる。「おい! マカ王飲むか!」「ノコリギヤシ!」「若々しい自信を取り戻せよ!」とか言える。完全に勝ちだ。セックスが絡んだ時点で、そして物語のある時点において――暗黙的にであれ、明示的にであれ――これが最高の愛なのだみたいなあほくさい話が出た時点で、我々のうちの一人は木を切り倒し、干し、立派な木材にするし、もう一人は縄を結い、もう一人は山から巨大な岩を切り出してくる。そして我々は投石機を作り、その愛の巣とやらをこれ以上ないほど破壊的に批評できる。後には間違えた恋人がまた増えるだけだ。


一方で、『膵臓』はマジでうまい。マジで徹底的にセックスを避ける。マスターベーションすらしない。アセクシュアル、Xジェンダー等の当事者の価値観を毀損するつもりは一切ないし、性的なものに忌避感を覚える人がいるのも理解している。しかし、村上春樹を高校生のうちに読むようなやつは絶対マスターベーションするだろ!!!!! なめてんのか!!!!! するだろ!!!! どうせ『朝の読書の時間』に『仮面の告白』読んでちょっと勃起してんだろ!!!!!!!!!! 知ってっからな!!!!!! 最低でもホテルのトイレではマスターベーションしろ!!!!! 修学旅行の写真とかうっかり間違えて買ってマスターベーションとかしろ! ていうかしてくれ! した方が面白いから絶対!!!!

これはやや冗談めかして書いただけだ。実際のところ、『膵臓』は極めて巧妙に、そして明示的に、これは性の絡む話ではないと念を押す。最後に『私たちの関係をそんなありふれた言葉で呼ぶのは嫌なの』とまで書く。普通に考えれば、これは「友達でも、恋人でも、特別な人でもない、もっともっと特別な人、特別な人2.0、ネオ特別な人」みたいな話につながる。死を共有した、相反する二人がどうの。

私からすれば、ヒロインは完全に装置であり、『私たちの関係』とは『装置と使用者』だ。彼女という装置を用いることで、主人公は1. 人と接するようになり、2. 精神的に成長し、3. ヒロインの友達といい感じの関係になる。おそらくこっちとセックスをする(しかもそれは物語の外に置かれる)。分かるか? この装置は目的を果たすし、しかもセックスの相手も提供してくれ、しかも勝手にこっちを見つけてくるのだ。完璧だ! 全国民に配れ! ひろゆき見てるか? うさぎを配るのは古い。時代はネアカで六ヶ月後に死ぬ女。ふざけんなよ。


私は『膵臓』をかなり愛憎入り交じった気持ちで見ている。文体はマジ読んでて恥ずかしい。自殺について考えてしまう。読んでいると、ぱっと頭の中を文字がよぎる。

自殺

こういう感じだ。

一方で、これを書ける度胸は素晴らしいと思う。これは意識してないと書けない文章だ。これは無意識的には書けない。作者は上述のようなことを理解し、その上でこれをやろうと思っている。それが売れることを理解し、自分が十分な能力を持つことを理解し、そして実際にやり遂げた。これは純粋に評価に値する。皮肉でも何でもない。作品は書くか書かないかのどちらかで、そして信念はやり遂げるかやり遂げないかのどちらかだ。『膵臓』は真っ向から来て、そして正面から、一切逃げずにやりきった。これは驚異的だ。


今ふっと思いつき、そしてあまりに困難なためにやめようと思ったことがある。『膵臓』とウェルベックを比較してみてはどうだろうか? ウェルベックの小説においても、女や男がプロットの駒として扱われることがよくある。特に、女はよく『処理』される。しかも、大体においてウェルベックの小説に出てくる女は死ぬほど都合がいい。

ただ、ウェルベックの恐るべきところは前述の言葉を借りれば、『衰微していく愛』を極限まで突き詰めるところにある。

もちろん、『朽ちゆく愛のうつくしさ』みたいな話にはならない。愛は何にもならない。というか、愛を何にでもなくしてしまったのだから、当然、何にもならない。言葉も何にもならない。そのような状態においては、一切の救いがたたれる。『プラットフォーム』において、ウェルベックは必然的にヒロインを処理しなければならなくなった。それはイスラム過激派の襲撃によって達成された。ただ、それによって全ての救い(自殺でさえも)が絶たれる。「性を資本主義的に取り扱うことで報いを受ける」というのは皮相的な見方だ。我々は性を資本主義経済に組み込まざるを得ないし、それは宗教的概念と相容れないし、従って必然的に摩擦は生じるし、そして摩擦は我々を完全にすり切るし、それにも関わらず、性によって得られたカネは生命維持には十分である。この見方もまだウェルベックにたどり着いてはいないだろう。

おかしい。私は『膵臓』の話をしていたはずだ。ウェルベックの話はしていない。私はオタクで、(三回目の結婚式で泣くところも含めて)ウェルベックが好きで、オタクとは自分の好きなものについて早口でしゃべるものだ。

以上である。