マジでヤバいやつについていくつか

日記

土曜日なので書く。昨日は飲み会があった。アルコールを入れると、それから十数時間、わりと使い物にならなくなるのだが、これは私が悪いのか、飲酒が悪いのか、意見が分かれるところである。
それにしても、憲法修正18条に則り、禁酒をしたのは、自由の国アメリカにおいては失策だったとみなされているが、曖昧な合意形成に基づく、ボトムアップ式の社会主義である本邦においては……。
なんでもいいか。

ところで、(このブログ)[http://teru111um.blog.fc2.com/]が病的すぎると、知人に教えてもらった。私はほとんど彼の文章が読めない。もちろん恥ずかしいからだ。僕を殴ってくれ。

これは嘘日記ではなく、私の練習経過とでも言うべきものだ。

ところで、ざっくり書くと、今までのような感じの文体を使っていたのは、練習の側面がかなりあった。

これは僕が21歳のときに、先輩(彼はマジでやばいやつだった)が衝撃的な短編を書いていたことに起因している。その短編というのは、身も蓋もない表現をすると、変態教師の監禁行為に加担した男子生徒が、警察にしょっぴかれるという、その生徒の一人称で書かれた話だった。こんにちでは、力を持つ人間による、弱者への監禁行為は、当たり前になりすぎて、ほとんど耳目を集めなくなっている。昔もあったものが表面化したのか、それとも現代の奸計とはこのようなものなのか、私にはわからない。なんにせよ、男子大学生が小学生を監禁し、とにかく監禁し続けたという事実はある。したがって、私が、先輩の短編に感じたのは、鮮烈なところや、小説にのみ許されるたぐいの露悪的なところではなかった。むしろ、その表面を滑る感じが、とても印象的だった。

 表面を滑る感じ。これは小説を書いたことがある人には、そして、その結果として、注意深く小説を読むようになった人には、とてもわかり易い概念のように思われる。これは、小説を書くときに犯しがちな過ちの一つ、『感情を移入させすぎる』ということの、対極にある書き方だ。この文体を用いた文章は、意味が通るにもかかわらず、読み手を徹底的に拒否する。そこには、肯定も否定も感じ取れない。道徳的な判断を、小説に求める読者は、非常に不安な気分にかられる。特に、そのシチュエーションが微妙であればあるほど。
 このような文体を得意とする人々の多くは、ライトノベル作家ではなく、純文学者が多いように思われる。例えば、ナボコフであったり、フラバルであったりする。日本で言えば、田中慎弥さんが当たるだろうか?

 これは、一種病的な書き方だ。というのも、私達が、日頃、小説に対して求めるものの一つには、そして歴史書ではなくまさに小説を読む理由のひとつには、単なる事実の羅列にとどまらないものを求めているからというものがあるためだ。プロットがあり、人物があり、そして事件がある。そしてそこにある語りを、私達はよく求める。一方で、表面を滑る書き方は、その語りに、激しい制限を加える。そこにおいては、心中を開陳することは許されず、描写は極めて簡素になる。湿った灰――このような表現でさえ、検閲の対象になりうる。例えば:

彼の家は神社の奥にあった。冷たい畳が敷き詰められた家は、湿った灰のにおいがした。

 何が問題なのかというと、私はここに、不注意にも、たくさんの暗黙的な情緒を導入しているところだ。冷たい畳。ロケーションを夏だとしてみよう。そして、神社の入り口には背の高い杉が何本かあり、セミがその周りで死んでいる。きっと夏が終わりかけている。彼の家は神社の日陰にある。真っ黒い木々の向こうには、青と白の空が見えるが、非常に遠くにあるように思われ、そして実際に、非常に遠くにある。そして彼の家は湿った灰の匂いがする。私はおそらく、死について語ろうとしていた。そして、このような暗渠を張り巡らし、次の表現の染み渡りを良くする行為は、私のやりたいことではない。

 したがって、滑るように書きたいと思う場合、最も簡単な解決策は、三人称の文体、神でないものの視点による記述になる。この視点においては、書き手は、文体のレベルで、自分を矯正することができる。もちろん、この矯正は完全ではないものの、非常に効率的なやり方であることは間違いない。

 効率的。もちろん、文学の土壌においては、この言葉を厳しく貶めて私は使っている。私は、できないことをやることに価値を見出している。できることを、もっとうまくできるようになることではなく。わかるだろうか? 一人称、または二人称による滑る文体。私はそれを書きたいと思っている。ここで、私達は、彼の小説に戻ってきた。

変態教師の監禁行為に加担した男子生徒が、警察にしょっぴかれるという、その生徒の一人称で書かれた話だった。

 わかるだろうか? 自分が、教師にカッターナイフで脅されて、同級生にひどいことをしろと言われた時、私達の道徳律は激しく反応する。しかし、彼の作品において、そのようなしかるべき倫理は丁寧に取り除かれていた。彼の一人称は、徹底的に表層を流れていった。私は、本当に注意しなければ、先輩がどこで、どのような言葉を取り除いたかがわからなかった。それは”バリ”のように見えたが、おそらくほとんどが、私がそうであってほしいと思った道徳律に影響を受けた、偽陽の例だろう。

 それから、私は表面を流れる文体を目指している。それは『私は悲しかった』を使わないという意味ではない。そのような、単なる語彙レベルの意味によっては、この文体を特徴づけることはできない。(むしろ、そのような単調になった語彙が、まさに無機質なところを生み出す、とまで私は主張できるかもしれない。)私が目指すのは、単調な描写、機械的な叙述、まるで既存の倫理や道徳心に興味を持たず、全てうまくやるために身につけた人間の述べるような言葉だ。それができた後、私は今までの文体に戻るつもりだ。