オナホールのある生活

日記

こんにちでは、自分の身の上を語るということが高く評価されている。 実際、我々が精神的な紐帯をもちにくくなった現在となっては、スポーツ観戦としょうもない日記にこれまでくだされていた評価は、あまりにも不当だった。

一方で、私は今日もうその日記を書いている。 多くの人が思うのと違って、これは『自分は嘘をついている』と分かっている点で、かなり狂気からは遠いところにいる。 というのも、ほとんどの狂気は、自分で自分を正当化する、というシステムを、自分自身を保つために必要とするからだ。

ところで、オナホールのある生活とはどのようなものか、きみには分かっているだろうか? 

これは5年前のことだ。大学受験を控えていた時の話だ。私の住んでいた小さくまとまった町には、やはり小さくまとまった狂人がいた。 彼は『コオロギおじさん』と呼ばれていた。その名の通り、出会う子供にコオロギのことを教えていた。 古くてうるさい自転車に乗っていたから、彼が近づくのは誰でもわかったが、 誰も逃げなかった。 なぜなら、彼は狂っていたが、我々に危害を加えなかったし、むしろ、『コオロギおじさん』からコオロギについて教育を受けるのは、 ある種の聖別だと思われていたからだ。コオロギおじさんからコオロギの薫陶を受ける。 次の日学校に行く。「おれ、コオロギおじさんに会ったわ」という。そうすればあなたはその日の主役になれる。コオロギおじさんはそういう存在だった。

だから、小学生の時からコオロギおじさんに話しかけられたいと私は思っていた。足のつけ根にある耳の話、コオロギにもいろいろな種類がある話、関東と関西でのコオロギの鳴き方の違い。 私は遠くにあの自転車、赤く錆びついて、甲高い声をあげるブレーキの自転車が停められているのを見るたびに、心臓が痛いほど跳ねて、 ぜひとも、もう弾まんばかりに駆け出していって、その自転車の近くで偶然そうなったように彼に呼び止められたかった。 毎晩、私はコオロギおじさんのことを考え、佐藤や田野口が言っていた武勇伝は嘘で、あいつらも絶対見ていないと決めつけ、 本当の、真の、まさに完璧な自分自身の体験としてコオロギおじさんと相まみえたいと熱望していた。

きっと、他の子供も同じだっただろう。

一方で、私達の両親達、そして教師たちは、おじさんのことを黙認していた。 彼らにとっては、おじさんが、少年少女たちが大人になったときに対峙する莫大な理不尽と恐怖に慣れるための緩衝材となると思っていたのだろう。減圧室になると期待していたのだろう。 もしくは単に……。

ほとんどすべての夢と同じように、私のおじさんに対する熱意は、やがて消えてしまった。 気がついたら、私は自分のペニスをシコってばかりいる、要するにオナニーモンキーになっていた。 私の右手は私のペニスのすべての部分を知り尽くしていて、これ以上のものはどうやっても考えられなかった。 一方で、このモンキーが見ているのは、もちろん、他の男の自慰行為ではないのだから、 ここには欺瞞的なものがあった……。

私が彼に初めて呼びかけられたのは、センター試験が終わったあとのことだ。 竜ヶ池の少し南にある住宅街で、私は犬の散歩をしていた。太陽が落ちたばかりのときだった。 ちょうど、薄緑色の光をあなたがまだ視界のそこかしこに見つけられるような時間帯だ。 彼は鉄パイプで作られた柵に腰掛けていた。そこは、もう何年間も使われていない空き地だった。そばには赤く錆びた自転車が停められていた。 彼は私を呼び止めた。彼は長いコートを着て、マフラーを巻いていた。それほど寒い日だった。「きみきみ」という呼び方だった。

そこにはなにか壊れたところがあった。

「なんですか」と私は答えた。私は今日のオナネタについて考えていた。 今思い出すと完全に違法だが、私達は田野口の兄(成人済み)にアダルトサイトの登録をしてもらい、そのアカウントを共有していた。 誰かがふざけて熟女モノばかりを見ていたので、私達は芋の子を洗うような熟女の群れから、何とかJCモノを厳選していた。 まあこれについての話はまたこんどにしよう。

「君さ、オナホールって知ってる」

私は彼の顔を眺めた。彼の顔の皮膚は、ぱりぱりに引きつっていた。眉毛には白いものが混じっていた。 前髪は薄く、細くなり、くるっと縮れて、頭頂部を目指していた。彼は貧相な老人になりつつあった。 そのような人を見るのが、私にはなにかぞっとするような死の予兆に感ぜられた。 成長が老化に変わり、そのことを否定できなくなる限界を、彼は踏み抜いてしまっていた。

「オナホールって知ってる?」

私はオナホールを知っていた。オナホール。私は一度ならず調べたことがあった。 こんにゃくやエイの裏っかわやイカやタコや羊やヤギについても調べた。 それらの歴史、女性用のそれらの歴史もひっくるめて、一人用の性具というやや逆説的なものの存在に引かれていた。 しかも、私達の誰もそれを使ったことがなかった。 15歳のときには、すでに童貞や処女を捨てた私の仲間でさえ、オナホールや、それの類似品については口をつぐんだ。 つまり、オナホールを使うことは、私にとっては、オナニストの免許証であり、そしてヤリチンやヤリマンにとっては、敗者の欠落に他ならなかった。だから一層私はオナホールに興味があった。

「すごいよねえ、あれ」

と彼は言った。すごいのか、と私は思った。ひどく寒い冬だった。私の犬は私の横にいた。彼は手に何かピンク色のものを握りしめていた。 薄い氷が、アスファルトに残った水に張り始めていた。急速に冷めていく空気が、彼の顔にちいさなゆらぎを生み出して、それは彼の顔を、少しだけなごやかなものにした。

「これなんだよ」

彼は右手に持ったピンク色のぷよっとしたものを差し出した。それはオナホールだった。彼は続けた。

「ヴァージンループっていうんだよ」

そして彼はコートを開いた。その下に、彼は何も着てはいなかった。彼の陰茎はとても長く反り返っていた。 青紫だった。彼は私の目を覗き込んだ。そして、手に持ったオナホールを彼のそれに咥えさせた。確かに、その時、私には、 ピンク色のオナホールが意思を持って、咥えにいったように思われた。くちゅくちゅという細かい水の音が鳴り始めた。

すいません、と私は言った。そして、ゆっくりと、犬を連れて、そこを離れた。彼は『コオロギおじさん』のはずだった。

この何年間で、変わってしまったんだろう。

それから、私はオナホールについて調べまくった。 もちろん、家族がいる場所で使えるはずもなかったから、このちっぽけなオナニーモンキーは自分の右手で我慢するしかなかった。 凍えたときは左手で。それでも寒いときは、左手をケツに敷きながら右手でやり、右手が寒くなってきたら、左手に切り替え、その間に右手をケツの下で温めた。 そうして交互にやった。 オナホールのことを考えながらやった。 すでに、田野口の兄のアダルトサイトは使っていなかった(500件のお気に入りが熟女モノで固定されてしまったのも一因だ)。 私はアマゾンのオナホールのレビューを見ながら自慰行為をするようになった。 『ゾリ感』という言葉で勃起し、『ジョリジョリ』という言葉で我慢の限界に達し、『ふわとろ系』という言葉で射精した。 鬼団子さんというレビュワーを発見し、鬼団子さんのブログを見ながら抜いた。 彼は尊敬すべきオナニストだった。一つのオナホにとどまるところを知らなかった。 オナホのドンファンだった。オナホの開拓者で、オナホの評論家だった。 ふわとろ系のレビューには、必ず『妹』『後輩』と言ったワードが登場し、 キツキツ系のレビューには、『処女』が同伴した。童貞であることを公言していた。 ああ、傷つく器官があったのは事実だろう。きみは言うだろう。 それは私のヴァギナの尊厳を貶めている。私は言うだろう。そのとおりだ。私を罰しなさい。

私のオナホに対する情熱は沸騰寸前にまで達していた。大学受験が終わり、兄との生活が始まっても、 暇があればオナホレビューを読んでいた。生協でおにぎりを買ってオナホのレビューを読み、 熱力学を受けてはオナホのレビューを読み、 そして兄と鳥のグリルを食べてはオナホのレビューを読んでいた。 しかし、オナホールそのものは、遠い向こうにあった。 まるで、船のないコロンブスが、歴史の緞帳の向こうで、胸をわくわくさせながらイブン・バットゥータの伝記を読みふけり、 何度も何度も、彼の書いた国の記述すべてを祝詞として心の壁に彫刻していくように、 私も鬼団子さんの言葉をかみしめた。

ここまできたら、大学3年生のとき、私が一人暮らしを始めたとき、最初に何を買ったか分かるだろう? 『ヴァージンループ ハード』だ。鬼団子さんがオナホの悪魔と呼んだそのシリコン樹脂。 完成された構造。精を搾り取る形をしているだろう?  これを文明の力とだけ呼ぶんじゃない。 これは我々の好奇心と、単に捨てられた無辜の我々の半数体と、贖えなかった性の欲望と、 そして人の肌より柔らかいシリコン樹脂を作り出した科学の結節点だ。 ヴァージンループハード。アマゾンから届いたそれは、あまりにもずっしりしていた。

一瞬、脳裏に彼がよぎった。名前はあとから着いてきた。『コオロギおじさん』。 私は忘れようとした。今日のために、月500円のDMMライトから厳選したアダルトビデオがあった。 鬼団子さんが薦めていたコンドームも買った(私はまだ童貞だった)、タオルも椅子に敷いた。 ボウルには温かいお湯を張って、オナホを温めた。付属してきたローションも、少し迷ってから 一緒に温めることにした。 私は深呼吸した。不思議にも、しばらく触っても、私はうまく勃起できなかった。 ビデオではユリちゃんがお風呂から出てきて、バスタオルを脱ぎ始めていた。

わざとらしい前戯が終わって、またわざとらしい本番が始まった。私は徐々に固くなっていった。 すでに私は受け入れる準備ができていた。私はレビューを思い出していた。ローションの小袋を切る手が震えて、少しだけ笑ってしまった。

ローションが垂れないように注意しながら、私は、オナホールを、ゆっくりと私自身に咥えさせていった。 私は不思議な気分になっていた。

そこにはどんな『ゾリ感』も『ジョリ』もなかった。彼らが言うような『ヒダ感』はなかった。ナム。極度のナム。 私は汗をかいていた。冬のはずだった。ディスプレイではユリちゃんがやたら喘いでいた。ここからあと少しで、一番抜けるところが来るはずだった。

私は思い切り、オナホールを底に埋めた。そして手を離した。

オナホールは、まるで、風呂に沈めたペットボトルのような勢いで、私のそれを抜け出した。 ディスプレイの高さまで上がって、机の上に死んだ魚のように打ち上げられた。みじめな音がした。

そして私は射精した。特に快感も興奮もない射精だった。単にコンドームを満たすためだけの射精。 オナネタもオナペットもない、単にFirefoxのタブ部分を見ながらの射精。

私は、自分のそれが小さくなるまで、しばらく、机の上のオナホールを見ていた。半透明のそれには、呪文のようなみぞが刻まれていた。 口からわずかにローションが垂れていた。 薄めるべきだったんだ、と私は思い出した。ローションは薄めて使えと鬼団子さんも言っていた。

しばらくして、ユリちゃんは一番抜けるところに差し掛かった。私は最後まで見ないでウィンドウを閉じた。 眼の前の壁から、女と男が喘ぐ音が聞こえてきた。

私はコオロギおじさんのことを思い出していた。彼の紫色で長いそれを思い出していた。彼もこのようになったのだろうか?  私はコンドームを見ながら考えた。私にもつつましい賢者の時間が訪れはじめていた。脳のしんが麻痺していた。 つまり、欠落にも排除されたという感覚を、彼も味わったのだろうか? 自分の中で何かが終わっていて、 それのせいで、一切の行き場を失ってしまったことを、彼も悟ってしまったのだろうか?

それから、私はオナホールを使うのをやめた。 それは私の机の上に、マグカップに入れられて置いてある。単に半透明のぶるぶるとして。 私はコオロギおじさんに無性に会いたい。私は彼の瞳を少し見るだけで満足できる。 彼がどうやってこの空虚に耐えるつもりだったかが。

こんなとき、きみならどうする。