導師に会う

日記

 本を数冊読んだ。ひたすらに調査を続けている案件もある。まだ時間がかかりそうだ。ある種の人々は、あまり調査しすぎるのも良くないというが、ぼくはまた、”あまり調査しすぎる”の段階に入っていない。巨人の肩に乗るのは難しいが、足元にもたどり着いていない学生が、そういう事を言うのは、時期尚早というか、傲慢というものだろう。
 なんでもいいか。

 土曜日はいつも遅くまで――九時くらいまで――寝ている。この日は目覚ましを掛けていない。何にせよこのくらいになると起きなければならない。というのも、エホバの証人がやってくるからだ。こっから先はちょっとセンシティブ情報で、検閲だ。

 居留守を使ったほうがよいことくらい、ぼくも分かっている。
「ああお久しぶりです」
 彼が悪くないことも、ぼくは理解している。彼がいつも笑顔なのがぼくは気になる。もしかしたら ものすごい サイコパスで、気がついたら……。
「今日はお休みなんでしたよね」
 彼はぼくのことを会社員だとみなしていて、しかも学がないと思っている。これは半分あたっている。まったく。
「こちらは今日、一緒に来た、瀬川さんです」
 彼女――少し太ったマダム――ももちろん笑顔だった。ぼくも笑顔になった。ぼくは他人が笑顔になると笑ってしまう癖がある。
「先週は、その、予言が成就する、書かれた予言は本当にそのとおりになるという話をさせていただいたんですが、覚えますか?」
 ぼくは覚えていた。数百年後に予言された方法で攻め落とされた都市。誰も住まない、ほこりっぽい荒れ地になったバビロンのこと。

ぼくは、そこで最後に死んだ老婆(最後に死ぬのはいつも老婆だ)のことを考えていた。彼女が杖を置いて、日干しレンガの塀に腰掛けて、ああ疲れた、と、大きくなった末期の癌がある喉で囁いて、そして単に死ぬところを。そこには迎えも王国も天使も裁きもなく、単なる死がある。何も残らない死。ぼくは彼女に申し訳なく思う。
「今日は、それとは少し変わって、その、科学のですね、進化論について色々な意見があると思うんですけど、その中で、こう考えている人もいるということを、短い、二分くらいですね、のビデオで見せたいと思うんですけど、お時間はありますか?」
 ぼくには時間があった。彼のiPadのアイコンは、Kindleの隣にJWの紺色が置かれていた。

 電子工学で学位。コンピュータビジョンとロボット工学で博士号。科学を信じていたが、進化論は仮説に基づいていて、裏付けとなる証拠は無いと気がついた。そしてここに来た。

「どうですかね」
 さっと思い出せるだけでも、五個くらいは反論を見つけることがぼくにはできた。そして、それは、負けることが考えにくい筋道をたどるだけの、知的とは言えないゲームだった。
「こう、進化って言うと、難しい学者さんが言ってるから正しいんだって、鵜呑みにしちゃうこともあるんですけど、今のビデオを見て、どうでしょうか?」
「どうでしょうって、あっはっは」
「やっぱりあっはっは、難しいですかね」
「ははは、やっぱり、あっはっは」
「あっはっは」
 僕たちは笑った。彼はこれから集会に行くのだと言った。
「ちょっと寝起きで、今週はですかね?」
「あっはっは」
 ぼくは笑っていて、彼も彼女も笑っていた。そしてぼくは扉を閉めた。ぼくはひどい気分になっていた。
 彼らは純朴そうで、ひげをきっちり剃り、土曜日にスーツを着てぼくの家に来て、日曜日に家族で旅行に行くような人々だ。そのときにも襟付きのシャツを着るはずだ。彼らには彼らなりのモラリティがあり、それはが与えてくれる。それを信じていればいい。どんどん進んでいける。間違えていたらそれは誰かが直してくれる。だから心配することはない。ためらうこともない。ただ信じていればいい。あなた達の王国はいつかやってくるかもしれない。
 しかし、彼らの神は、ぼくにとっては多すぎる量の銃をいつも持っている。

 ぼくは非常に自傷的な気分になりながらこれを書いている。一体何のために? ぼくは特定の宗教をあげつらい、これ以上無いほど見下した態度をとっている。ぼくは、わりあい生きている値打ちがない。わたしはもしかすると打ち殺されたいのかもしれない。ヨブほど忍耐力のないわたしは、そのうちくたばるだろう。なにもない死。ただ、バビロンの老婆は、わたしのことを受け入れてくれるかもしれない。閉経した老婆。喋れない老婆。しみだらけの顔と歯のない口をした老婆。まあいいさ。

 お酒のない飲み会に行った。これは一年生のための会であるため、そのようになっていた。これは喜ばしいことだと、ぼくは感じている。
 飲み会の時も、何回か彼らのことを考えた。ぼくはどんどんいやらしい気持ちになっていった。なぜなら、ぼくがいやらしい人間だからだ。
 帰りの電車で、ぼくのいやらしさは、もはや社会的な身分を放り出すまでにいたった。ぼくは目の前の女の子――包帯がふくらはぎを包むように巻かれていた――に席を譲った。なんていやらしい行動だろう。アンチ・パターナリズムの人間が見たら、まずぼくをパンタグラフにくくりつけているところだ。
 彼女は降りる際、「ありがとうございました」などと言ってきた。ぼくは「どうも」と答えた。これもいやらしい気持ちからだ。というのも、そういいながら、これはブログに書けると考えていたからに、他ならない。

 今、私は、スクリュードライバー(オレンジジュースとウォッカ)を飲んでいる。つまみは魚肉ソーセージだ。わたしがどれほど下劣な人間かは分かっていただけたと思う。あなたが手首を切るように、そしてあなたが自分の成績を言うように、わたしには、たんに、文字による自傷癖のようなものがあるだけなのだ。もう11時だ。私は寝なくてはいけない。私は一人でキーボードに向かっている。ひたすらに打ち込む。まぬけめ。ばかばかしい話だった。