コミットからの逃亡

日記に続くもの

今週は製本化されたもの、パッケージ化されたものをよく消費した一週間だった。

非常に長い記事になるので、以下を参考に、好きな部分までたどるとよい。

  1. BABELZINE書評
  2. 『アド・バード』書評
  3. ジョルジュ・アガンベン関連書籍書評
  4. 『正解するカド』評

Version 1.0

はじめに

LW氏に言及されていた。

どうでもいいですが(どうでもは良くないですが)、みそ氏と僕って多分ほぼ同年代で出身大学も同じなので間違いなくキャンパスのどこかですれ違ったことがあると思います

今度飲みにでも行きましょう。

LW氏はメールアドレスをはてなブログのどこかに書いておいてください。メールします。

BABELZINE一行書評

バベルうおなる場所から、BABELZINEなる本が届いた。海外SFの翻訳が載っていた。以下に一行書評を記す。

書評が短いのは理由がある。誰でもこの本を手に入れられる状況にはもはやはなく、したがって、二度と地上に出現する機会を持ち得ないため、羊皮紙に記されている事柄の一切は、過去と未来を問わず、反復の可能性のないことが予想されたからである。


バロウズ行った実験手法の一つにカットアップというものがある。これは自己コラージュとでも言うもので、英語圏の民ではない私にはやや理解しにくい。一方で、彼が与えた示唆に次のようなものがある:直列化が避けられない『書かれたもの』においても、コラージュは可能だ。


椎名誠:『アド・バード』

話としては、ポストアポカリプス的世界で、兄弟が父親を捜し回るという話だ。

SF的なツイストは世界設定に入っている。この世界が荒廃したのは核戦争でも情報戦でもなく、広告戦だというのだ。広告がどんどん発展していった結果、人類は自然界を使って広告を行うようになり、鳥が歌ったり、水棲生物を使って『水文字』を作ったりする。しかも他社の広告を潰す広告が禁止されなかった。

したがって、広告戦は「相手の広告(生物)を殺す生物を作れば強いぞい」という段階に到達し、バイオテクノロジー(作中ではサイバネティクスと遺伝子操作)が拍車をかける。生態系はマジで終わる。広告戦が文字通り人を用いる戦になったりする。しかも椎名誠が書いてるからやたら迫真の描写でグロい。本当にグロい。


主人公たち兄弟が価値判断に一切関わる気が無いのが特徴だ。

広告戦の末に生み出されたものに対して、彼らは「うわぁ……」とか「触るとマジで険しい」とか言うのだが、それを作り出した『ターターさん』や『オットマン社』に対しては善悪の判断を避ける。

このアパシーは徹底している。物語中盤で、今までいろいろ助けてくれたキンジョーというアンドロイドが『オットマン社』製のものが分かっても「そう」くらいの感じだし、脳髄男という同行者が『ターターさん』そのものであったことが分かっても「現象の説明はつく」くらいの反応だ。いやもっと驚けよ。

ターターさんが人間を脳髄だけに解体して鳥に組み込んで「しゃべる鳥!」と喜んでいた――そして現在進行形でそのシステムが続いている――ことが分かっても、いまいちラディカルな反応はしない。鳥(脳髄移植済み)はもちろんぶち切れており、『ターターさん』を付け狙い、最終的にはどっかに拉致するのだが、主人公はその消息にあまり興味を示さない。

このコミットからの逃亡は、物語の終盤、父親が脳髄だけに解体されて、海の監視システムに組み込まれていることが分かっても特に変化はしない。「悲しいなあ」くらいであって、オットマン社が悪いのは悪いが、まあなったものは仕方ない、位のノリだ。「父親を解放してあげよう」とシステムを破壊することもしない。頼りになるキンジョーはオットマン社製品だしムリだろうなあ、みたいな。

この態度については、否定的に見るよりも、むしろ当時の時代精神を反映していると捉えた方がいいだろう。現代の価値観で、30年前の作品を見るのは容易ではない。この本は私より年上だ。おそらく当時は善悪の判断から逃れるのも一つの勢力であったに違いない。今もそうなのだから。


設定とネーミングが愉快なので基本的な面で一切の文句がないが、いくつか注文をつけたいところもある。

「広告が異常になる、マジやばい」というのは昔にはよくあったテーマで、筒井康隆『賑やかな未来』や、『ブレードランナー』の巨大広告にも伺うことができる。

ただ、このような観点は今では古くさくなっている。実際のところ、我々が面しているのは、もっと遠慮がちな広告、しかし我々をハックするような広告だ。アマゾンのレコメンデーションを思い出すといい。人にものを買わせるには、大きな声を出す必要は無い。その人が欲しがりそうなものを提示し、実際に欲しがらせればいいのだ。

樹と樹が戦うというかなり不可解な章があり、数十ページにわたりひたすら樹同士がガチンコでボコり合うシーンがあり、かなり退屈だ。しかも、実際に椎名誠が語るところによると、このシーンは書くことがなくて書いたらしい。あのさあ。


一方で、小説のコラージュにおいて困難なのは、意味が極めて不連続に動くことだ。固有名詞は頼るべき文脈を失うし、言明の基礎は失われる。コラージュ元のプロットは使用不可能なまでに破壊される。我々はなんとかしてそこにプロットを再注入する必要がある。切り刻んだ死体をなんとかして動かすのだ。


アガンベン関連書籍

『シリーズ現代思想ガイドブック ジョルジュ・アガンベン』と『アガンベン 《ホモ・サケル》の思想(講談社選書メチエ)』を読んだ。今まで、アガンベンについては、七億年前に受けた『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』の授業の記憶だけで生活していたので、これはドーピングである。

最初に言っておくが、私は哲学に関して専門的なトレーニングを積んだわけでも、専門家による継続的なレッスンを受けたわけでもない。これら二つは哲学においては特に重要な二つの訓練だ。従って、私がこれから述べることはそのように――非専門家によるたわごととして――受け取られる必要がある。真面目に取っちゃ アガンベン ( あかんねん ) 。もっとはっきり言うと、これは私の読解したところのアガンベンであり、真の――そのようなものがあればだが――アガンベンではない。


第一の本(現代思想ガイドブック)の方はよくまとまった本だ。アガンベンに参入しようと思うなら、まずこれを読んでから、原著に移った方がいいだろう。第二の本は……かなり独特だ。言葉を用いて説明するよりも、言葉を引くことによって、言葉自身に語らせる方がいいだろう。

かくして、統治機構が分節化される場を構成する要素――ないし極性(polarità)――は、父・子・精霊からなる三位一体的オイコノミアという装置においてこそ、いわばパラダイム的な形で現れている、との見地に立ったところから、統治なるものを三位一体的オイコノミアに関する神学的トポスのうちに位置づけ、三位一体的オイコノミアという装置が統治機構の機能と文節化を観察するに当たって、いかに特権的な実験室たりうるかを示す必要性をアガンベンは宣言する。じつにチャレンジングで、読者の期待をいやがうえにも高めさせてやまない宣言である。

じつにチャレンジングな本だということが分かるだろう。散発的に鋭い指摘があり、その周辺の文脈を追うこと自体はある程度可能であることから、おそらくはまともな著者がまともな文章を書いているのだが、私の能力が追いついていない。

ところで、

言葉を引くことによって、言葉自身に語らせる方がいいだろう

と言ったが、言葉は何を語るのだろうか? ――答え:言葉に対応するもの(シニフィエ)。

では、言葉が自分自身を語ることは可能なのだろうか?

この質問は言葉のシニフィエについての質問ではない。「言葉で言葉を語ることはできるのか?」という質問ではない。それはできる。例えば、『言葉は毛のない猿によって話される音のつながりで、毛のない猿はそれを聞くと動く』というように、言葉について言葉を用いて語ることはできる。こういう話ではない。

そうではなくて、言葉に自分自身を語らせる、ということの可能性を説いている。つまり、『飛ぶ』と言う言葉によって、当の『飛ぶ』と言う言葉についてなにがしかを語ることはできるのか? と聞いている。これは極めて難しいことが分かる。というか無理だ。ほとんど全ての語彙は、自分自身について説明できない。

ほとんどの?

『これ』、冠詞なし、説明なし、むき身の『これ』、むき出しの『これ』は自分自身について語ることができる。なぜならそれはものを指すために、そしてそのためのみに使う事ができるからだ。例えば――そして不正確には――「これはこれ」と言うように。しかし、当然のように、この説明は何の意味も果たしていない。は?って感じだ。

どうやら、アガンベンの哲学はこの部分、つまり『自己否定的な自己の基礎付け』というところに端を発するようだ。スコープを狭めるため(そして、私はキリスト教についてあまりいいイメージを持っていないため)『剥き出しの生』についてのみ話をすることにする。

ものすごく雑にいうとこうだ。やなせたかしがいうように、オケラもミミズも人間も生きているわけだが、傲慢な毛のない猿は一つのことを思いついた。それは、「どうやら我々は通常の生、オケラ・レベルの生(ゾーエー)だけではなく、もっと人間らしい生(ビオス)も持っているっぽい」ということだ。

じゃあどんな生かというと、それは政治的な生だ。ここでの『政治』というタームは独特の使われ方をしているように見える。それは交流可能性であったり、議論可能性というものを指すようだ。ある共同体の中で、ある物事に関して議論を行い、コミュニティの振る舞いを規定していく(立法とでも言うか?)……このような活動のことだ。

もちろん、今、私は『共同体』という概念を密輸入した。ここで私は関税を払うことにする。実は、ビオスはただで手に入るものではない。何か喋ってつくる必要がある。そりゃそうだ。暴力だけで法はできない。つまり、言語はビオスより前にないといけない。そして、言語は全て局所的なものであるから(『方言』という言葉もある)、ビオスは言語を共有する集団――『共同体』――も前提とする。これが関税だ。満足か?

ところで、このビオスが規定するところの法は二つの意味でゾーエーと混ざり合ってしまう。

一つ目は、法は常に法の外のものを措定する、というところから始まる。と言うか、何にでも適用できる法というのはもはや何の意味もない。日本国憲法も「日本国民は」と始まる。これは要するに、「日本国民ではない国民もいるけど、ところで日本国民は」という訳だ。

一方で、このように法が境界をつくると、法によって定められたビオスと、おそらくそうであろうビオスの間には不明瞭な地域ができてしまう。

例えば、日本国民は、と言うと、突然、日本語ペラペラだけど国籍とかぜんぜんないマジマジの韓国人が出てきてしまう。さっきコミュニティの定義で議論可能性って言ってたじゃん。日本語ペラペラな韓国人とも普通に話し通じるじゃん。じゃあこの人も日本国民じゃなきゃだめじゃん。だから日本国憲法のビオスとほんものビオスは違うね。証明終。

これを定義の拡張によってすり抜けるのは不可能だ。リベラルの言うとおりにして、ガンガン国籍配りまくって、もう『日本国春の国籍祭り(ジャップの首を10個持って行くと国籍がもらえる)』をやってもビオスは埋め尽くせない。ベトナムからボートピープルがやってくるように、人々はどこからでもやってくる。全てをまかなおうとすると、我々は基礎付けを破壊せざるを得ない。つまり、

「日本国民ではない国民もいるけど、ところで日本国民は

という部分をだ(否定的な自己定義について思いだそう)。

要するに、法によって回収しきれない(だが回収するべきだった)生は存在する。これは本来ビオスに属するのに、我々から見るとどうみてもゾーエーっぽい生だ。うわ、こいつ動物じゃん。それは例えば難民であり、被差別民である。

この『剥き出しの生』はもうどう見ても動物の側なので、何かして『禊ぐ』ことができない。儀礼的にどうにかして、トイレ掃除100回で手打ちはできない。より悪いことに、それはビオスに突入してきたゾーエーだと見なせるので、普通にぶっ殺せる。マジでいける。どうぞって感じだ。豚と同じ。罪悪感マジゼロ。人間って口も肛門もゼロの形してるじゃないですか。だから殺しても罪悪感ゼロなんですよ。これをあまりにもグロテスクだというなら、我々はこの歴史的事実を思いだそう(ホロコーストではない!)。

二つ目は、実は、法の裁定者は法に関して超越的な権利を持つ、というところだ。国王が(なんだこの言い方?)法に従わないのを思いだそう。王は法を制定するのであって、法に縛られることはない。と言うか、まあ縛られはするのだが、いつでも法を無視できる。うるせえ!!!!! 俺が法だ!!!! ドン!!!! 法、無力じゃん。悔゛し゛い゛!!!!

特に、緊急事態――『例外状態』と呼ばれているが、これの定義は不明瞭だ――においては、この傾向は一層強まる。コロナヤバいじゃん? 俺に従うじゃん? そういう感じだ。

この様子を見ると、どう見ても王はビオスの領域を穿孔している。もちろん、王はゾーエーという訳ではない。王が武闘派で「ガアアアア(日本語訳:獣性を思い出せよ)!!!!」と臣民を虐殺はしない。未だにビオスにいるはずなのだが、どう見てもビオスにはいない。マジ話通じないし。というか、王はビオスを縮小できる。そして自分を特権的な立場における。マジ脱税とかできるし。

そして、この二つを考えると、面白いことが分かる。要するに、王は自分をビオスから除外したように、ビオスを小さくすることで任意の人を取り除けたり、含めることができる。ナチスを思い出そう。彼らは自国内のユダヤ人をビオスから切り離したが、大戦後期においては「アラブ人は名誉アーリア人」とビオスを広げようとした。

アガンベンの言うところでは、このような主権者による恣意的な『剥き出しの生』化は近代に特徴的なのではない。ビオスとゾーエーを分けようとしたそこから始まっている。なので、「いや法律ちょっと頑張りゃいけるっしょ。大量虐殺はNG」みたいなウェイなノリはマジでムリだ。我々が動物と人間をビオス/ゾーエーの基準で分けようとした時点で、これは不可避の問題になる。マジマジ。

一方で、そのように分ける方法は単に机上のものでしかなく、『剥き出しの生』や主権者と言った謎領域に陥入する人が出てくる。これは上の分類法が完全ではない事を示唆している。つまり、まだ我々には何かあるんじゃないの? ということだ。この謎領域にはまだ何か、とんでもないものが潜んでいて、やろうと思えば主権者なんてボコボコにできるんじゃないの? え? ん? お? という感じだ。この「お?」のことをアガンベンは『潜勢力』と呼んでいるらしい。

これが今のところの私のアガンベン理解である。


そのようなとき、書評はある種の解題として働く。転ばぬ先の杖になる。ストーリーを形成する。小説のフレームワークから出ることなく、抽象的なものを抽象的なまま扱う手段を提供するかもしれない。

書評とは参照を促す。それが評されているものを読めと言う。書評はコラージュの全景を惹起させる――コラージュの全ての部分の全ての全景を。

それはあたかも、我々がコラージュ絵画を見た時に、あるパーツを中心として、そのパーツが由来した全景を想像し、このステップをすべてのパーツについてやることに似ている。ここは草原を走る汽車。ここはヴィーナス。ここは……そしてここは……。


正解するカド

私がこのアニメについて持っていた情報は「大正解生殖ビーム」と「『カド』は語尾ではない」ということだカド。0話から12話までを一気見した感想を書くカドよ。

レビューを読む

逆張りオタクに取って大切なのは、何が順張りなのかを知ることだ。敵を知り己を知れば。Amazonのレビューを読むと、多くのレビューは次のようなことを述べていることが分かった。

447もカスタマーレビューがあり、だいたいこの6種に還元できるのは驚くべき事だ。これを見ると、逆張りオタクのやるべき事が分かる。つまり、

こういうことだろう。ちなみに、最後の『正解』は何なの?についてはこの時点で反論できる。工業的に生産される物語においては、「Aを求める」と始まったストーリーは、原則として、Aを入手することで終わってはならない。それはA'やBを手に入れなければならないのだ。

実際に見る

0話から12話までを見た。OPとEDと最初の「これまでのあらすじ」を徹底的に飛ばしたので、大体4時間半くらいで見終わった。疲れた。

あらすじと評価

政治的なアニメ?

一部の感想で、『シン・ゴジラ』と同じく政治活劇の要素があり……と書いてあったが、これは判断に困る言明だ。簡単に「『正解するカド』は政治交渉劇」という言明だとすると、これはマジで面白い。と言うのも、『カド』は政治の領域を消し飛ばしているからだ。

主人公が宇宙からやってきた白髪の超知性体とファーストコンタクトを取る。超知性体は地球人と交流というか、交渉をしようと考えていて、その代表として主人公が選ばれそうになる。そのときに内閣府の人間が

「お前、今からこの件に関して総理大臣と同等の権限を与えるからな

であり、主人公の反応が

「おれは超知性側にいた方が便利でしょ。後輩に与えてくださいよ。実効権力はもらいますけど

である。マジで日本人はイッちゃってるよ。あいつらは未来に生きてんな。国民主権とは何だったのか????? まあ、総理大臣が権力を持っているのはいいだろう。超雑に言えば、我々は選挙で代理人を選び、その代理人が総理を選び……となっているのだから、国民主権と総理大臣の存在は矛盾しない。

だが、その権限がぽいっとノリで渡され、しかも傀儡的な運用があけすけに認められるとはどういうことなのか? 

まあ、私は政治は専門ではないのでこのくらいにするが、ここでアガンベンを思い出すのもいいかもしれない。アガンベンがよく使う引用に、『主権者とは、例外状態において判断を下すものである』という言葉がある。国民主権においては国民が主権者であり、『正解するカド』においては、主人公真道、後輩の花森、そして総理の犬束が主権者だ。

『カド』において政治のようになされる描写は、実際のところ、局所的になされた議論が全世界的な影響を及ぼす、という枠組みでしかなされない。国際的な議論は単に無駄だ。国連が何を言おうが、結局は犬束と超知性ザシュニナの談合でストーリーは決定される。国連、無力~~~~!!!! 国会前のデモも特に意味はない。国民、無力~~~~!!!! ザシュニナが一片2Kmクソデカ立方体を搬入した先での「太陽を返せ」というデモも基本的に無意味だ。日照権、ねえ~~~~~!!!!

つまり、『正解するカド』を『シン・ゴジラ』と同じ政治活劇というのは、相当量の皮肉を含んだ場合においてのみ正しい。

9話まで

はっきり言うが、9話までは確かにかなり面白かった。9話までのあらすじは、

  1. 異世界(異方)から白髪の変態(ザシュニナ)が来る
  2. 『無限の電力が出る』飴ちゃんみたいなのがもらえる
  3. 飴ちゃんは実は手作りできた
  4. 羽田空港から湖の畔までザシュニナのおうち(一辺2Kmの立方体)を動かす
  5. 『見ると眠らなくてよくなる』枕をもらえる

である。

まず、ザシュニナが「地球の代表者と話がしたい。時間は3秒」という。主人公が「短い」という。「6秒」「短い」「10分」「短い」「三時間」「……」「三時間」「……」「三時間」「分かった」という交渉シーンがあるが、これは相当面白い。というのも、実質的に主人公がザシュニナと交渉したのはここだけだからだ。

『無限の電力が出る』というバカアイテムが量産される時も、『異方(ザシュニナが来たところ)とつながるには構造が大事。要するに作り方が分かれば紙でも作れる』というツイストは面白い。主人公が折り紙をよく折っているのもここに響き合っていて、何か独特の深みを出している。そこは認める。

クソデカ直方体を運ぶ時、主人公真道が「こう運んだらどうだろう?」と言って、「「「その発想はなかった」」」みたいに、謎になろう系っぽい空気になるところも含めて面白い。

『一目見ると寝なくてよくなる』というさらなるバカアイテムが出るのも面白い。「人の仕事量が1.5倍になるぞ!!!!」と同僚が驚いていて爆笑してしまった。1.5倍ってそんなでもなくないか??? さらに、真道が「おれはもう20日も寝てない」というのも笑える。なんか大学生がめっちゃイキってる感じが好き。

もちろん、色々と突っ込みどころは多い。まず、物理学者が『アニメの中の物理学者』の極みだ。浮世離れした天才という造形はすでにかなりキツい。『メッセージ』(『あなたの人生の物語』映画版)に出てきた筋肉モリモリマッチョマンの物理学者もちょっとどうかと思ったが、正直、このキャラクター造形は論外という感じだ。物理屋は怒っていいぞ。だって『ストレンジラブ』から全く変わってないんだから。

あと、グーグルっぽい会社のCEOが金髪碧眼だったりする。やっぱりこういうのはインド系にやらせた方が断然説得力が増す。謎に「全世界同時中継だ!!!」とか言ったりする。普通にYouTubeにアップロードすればいいじゃん。

まあ、こういうのは些細な問題で、述語も「おー?」みたいなのがたまに出てくるが、まあいい感じだ。全体的にいい感じであり、いい感じのアニメだ。

9話以降

正直、9話以降も私は結構楽しめた。

物理(重力とか時間とか慣性とか)法則を操れるアイテムが手に入った時、真道が働き方改革!!!みたいな発想になるのがよすぎる。こいつホント骨の髄まで資本主義者だな。

また、ザシュニナが「僕らは37乗倍複雑なんだ」という謎の比較をするのもいい。どういうことなの? 三乗倍っていう? いうならいいけど。

人々の間に資源の有限性という概念が完全に欠けているのも面白い。電力が無限にある=何もかも無限にできるという、とんでもなく間違えた理論がまかり通るのがすごい。食料をどうやってつくればいいんだ? レアアースは? まあ、突っ込むのは野暮なのは分かっている。分かっているが、真道が「物があふれる」と言って、ザシュニナが「君たちは作りすぎることはない」みたいな返答をする部分は、完全に面白状態だ。ほ? ってなる。こいつら電力でパンを作る気かな? 言ってない方のマリーアントワネットじゃん。

というか、ザシュニナの理論はマジで理解不能だ。「君たちには情報が詰まっていて、異方は情報がたくさん詰まっているとうれしい」という理屈なのだが、『情報』というタームの定義が謎だ。なんとなく察するに、ザシュニナは「レアなことが起こるとうれしい」というモチベーションで活動している。それなら、なぜ「私たちは情報を一瞬で消費し尽くしてしまう」と言うのだろうか? というか、情報を消費する、とはどういうことなのか? 割と重要な概念が、一切なんの説明もなく進むのでつらい。というか、レアなことが起こるのが好きなら、量子学的さいころを振っているので十分楽しめるのでは? と思ってしまう。1000000個の量子さいころが全部6を出した!!!!!!みたいな。

まあともかくそういうモチベでザシュニナは人間を異方へ拉致しようとする。ちなみに拉致の成功率はめちゃ低い。それを拒むアマの言い分は「作った物に干渉しないで。理由はこの世界を私が好きだから」だ。こいつマジで40次元から来た超知性か? ママの子宮に忘れ物でもしてきたか??? これは不正解カドね。笑いが止まらん。

レビューでもあったが、最後の人権蹂躙ターンもすさまじく面白い。娘の人権もさることながら、後輩の花森の人権も完全に無視されている。16年間、赤子と同じ空間に閉じ込められるんだぞ? 第二次性徴とか来たらどうするんだ? これが先生のおしべです、みたいな事をするのか? と思ってしまう。生理用品とかどうするの? ここら辺は完全に全体主義的な自己犠牲を強いていてゾクゾクする。こんなことするなら、ザシュニナに1000億体花森を複製してもらって、拉致が成功するまで花森に死んでもらえばいいじゃん。死ね花森。地球のためだ。これは正解カドね。


総評

どうやら集合知にはかなりの分があるようで、私はカスタマーレビューとだいたい同じ感想を持った。

一方で、カスタマーレビューに載っていない点として、『カド』においては登場人物がひたすらに善悪の価値判断を避けるという特徴を記しておこう。物理屋は「技術に善悪はない」と言うし、総理大臣は「道具に善悪はない」と言うし、報道屋は「事実に善悪はない」と言う。最後の局面においても、16歳の娘は「私たちは途中なの」と明示的に善悪の判断を避ける。

これは、物語冒頭で述べられた「オーバーテクノロジーは人類にとって善/悪なのか?」という疑問をひたすらに先延ばしにする。というか、誰も責任を取ろうとしない。唯一、すぐに股を開くクソアマこと徭沙羅花だけが、明確に「この世界に干渉するのはよくない」と善悪を表明する。

個人的には、なんであれの結論を出すクソアマの姿勢には賛同する。一方で、「それ自体には善悪はないよ」と言って、ひたすらに自分たちを責任のない機械と見なす物理屋・政治屋・報道屋・真道はかなり最悪な部類に入る。実際のところ、技術に善悪はないのだが、彼らはそれに対して行動する。それに対しては倫理の入り込む余地がある。


我々が「原発は悪い」とか「原発はいい」とか言うときの議論の焦点は、決して「核分裂はけしからん」とか「デーモンコアの確かな熱は素晴らしい」とかいうところにあるのではない。原発を糸井に作ったり福島に作ったりして、現行の基準を敷き、そしてそれを民間企業の責任の下で稼働させることが、それぞれの点において善なのか、悪なのか、というところにある。そして、当然、この『善/悪』は不確かで、揺らぎ、信頼が置けない。おけないのだが、個人的には、それを後回しにし続けることは不誠実だと思う。

よく、理系の議論でありがちな「僕(笑)倫理的な善悪とかどうでもよくて(笑)論理的な正誤があってればいいんですよ(笑)」みたいな議論がクソなのは、1. そもそもの議論の対象を間違えていると言う点 そして2. 人間が引き受けるところの物を引き受けようとしない点 であろう。もちろん、最初から一切コミットしないのはそれはそれで正しい。