切断についていくつか

日記

 初めに、先日の更新を修正した。というのも、途中までしか更新が反映されていなかったからだ。より正確に言うと、git pushを忘れていた。

 最近わかってきたことだが、私は日記というスタイルに向いていない。私はたわごとを書く。そして日記はあまりにもたわごとになりにくい。というのも、意識的に他人の日記を見る時、その人は、単にたわごとを読むというよりも、その日記の著者の思考や日常をなぞるためにやるのだから。

 私が好きな状況の一つに、願い事が叶えられ、本当にほしかったものとは違うものがあなたに与えられているのに、周りの人々が、口々に「良かったじゃないか」と言ってくる、という状況がある。あなただけが、願いがうまく叶わなかったことを、あなたが間違えた精霊に頼み事をしたことを、そして、それにもかかわらず、あなたがそれの対価を支払わなければならないことを知っている。ジンは悪辣な笑みを浮かべる。あなたはあなたの人生というやつを与えなくてはならなくなる。

 例えば、本当は単に生きていくための縁(ヨスガ)や治療を求めているが、よくわからない彼氏や彼女をあてがわれて、それと毎週セックスをして、まるでそれの恋人のように過ごさなくてはいけなくなる、という事がある。他にも、知識が欲しかったはずなのに、両親の称賛を与えられ、その為に、書物の大海ではなく、数冊の教科書と参考書しか与えられなかった、高校までの秀才などがいる。単に、抽象的な幸せを求めていただけだったのに、それの具体例として、カネを使うことしか与えられず、二十四歳にして、月収や年収以外の話に興味が持てなくなってしまった実業家。私がセックスとカネを信用していないのは、それがたいてい、本来求めているものとは異なるものだからだ。

 おそらく、誰であれ、(比較的どうでもいい)願いのいくつかはこのような成就の仕方をしているはずだ。このような状況においては、我々が出来ることは、はっきり言って、とても長くてとても孤独な相撲とでも言うべきものに限られる。わかりすく言うと、ベッドの中で、するべきではなかったがしてしまったこと、するべきだったがしなかったことを思い出し、自分をいたぶり、なじり、将来に関して悲観的な予測を立てることに限られる。この相撲においては、あなたは常に自分自身を徹底的に打ち負かさるし、どのような救いもない。不思議な話だが、多くの人が、このような自虐と自己憐憫においては、ある種の楽しみがあることを認めている。それこそ、多くの哲学者が、決まって自分の前の書籍を引き合いに出して叩くのは――しばしば本人も認めるが――このような目的だ。

 これもそのような種類の話だ。(本当は20枚位の話を、1枚分にまとめている)