日記についていくつか

日記

 Charles Bukowski の The Captain Is Out to Lunch and the Sailors Have Taken Over the Ship という本を読んでいる。やる気がややなくなる。

 論文の投稿が終わった。プレプリントサーバーにはアップロードしなかった。僕が思うに、プレプリントの取り組みは、科学の歩みを加速させるという高邁な目標を掲げながら、実際は競争を煽っているように見受けられる。そして、そのような競争の激しさは、ちょうど荒い地面を爆走するようなもので、ひどい事故――再現性の危機――をはらんでいる。
 確かに、従来の、レビュアーによる監査、エディターによる審査、そして改稿を経て掲載されるというその過程そのものが、投稿から掲載までの期間を延長しているというのはまったく事実だろう。そして、それらのステップを全て取り除くことで、研究のサイクルが早くなるというのも。それが、あなたのCVを厚くし、ソフトウェア、手法がまだ未熟なうちから先取権(プライオリティ)を確保できるようになるというのも。
 しかし、まさにその冗長な過程そのものが――特にリビジョンによる遅延が――ライフサイエンスの再現性やディスカッションの注意深さをやしなってきたのだと、僕は考える。というのも、リビジョン一回につき、あなたは一ヶ月以上の遅延を受け取ることになり、それならば、投稿前にゆっくり精緻さをました方が良いからだ。それには再現性をしっかりと取ること、ヘッジングをかけること、そして文献をよく読み、そして自らの新規性(これは多くの場合、ほとんどあるべきでない)を正確に述べられるようになることが含まれる。これらの全てが科学の土であり摩擦である。それによってあなたは歩くことができる。
 さらに、査読者に回る前に、インターネット上で過度に言及されることによる、査読への影響もあるだろう。これは重要な論文で、すぐに出版されるべきだと、プレプリントで話題になっていたものが、あなたの手元に届いた時、あなたはいつものように査読を行わなければならない。時間をかけて。粛々と。しかし、そんなことができるのだろうか? プレプリントの段階で、すでに無数の解説が上がるようなペーパーも出てきている。メソドロジーは特にそうなってきている。しかし、もしそれが、コミュニティの加熱によるものであったのなら、これは科学にとって不愉快な放埓というほかにない。
 もちろん、この時に過度とも言える精緻さへの要求が、チャンピオンデータや改竄といった、種々の悪行を生んできたことは否定できない。しかしながら、ゆっくりと、確実な物を書くという手順を踏まない科学が、どれほどの物なのか、僕にはわからない。
 ゲノムサイエンス、特にシークエンシングの界隈においては、プレプリントが取り上げられることが非常に多くなってきている。特に、ソフトウェアの開発においては、論文誌に載るまえに、広く使われるようになることも珍しくない。
 しかし、僕の意見では、これは科学のシステムが怠惰なせいで、現場にキャッチアップできなくなっているということが原因なのではない。単に、ソフトウェアそのものでは、科学にならないというそれだけの理由だ。僕は、もはやソフトウェアでは論文を書くことができないだろうと思っている。それはツールだ。
 既存のアルゴリズムとデータ構造を組み合わせて、現場のニーズに沿った高速なソフトウェアといったものは――それは素晴らしいものなのだが――やはりライフサイエンスではないだろう。そして、それらの開発者は、論文になることを返報と考え、それの前借りとしてプレプリントを使うのではなく、単に優れたソフトウェアを作り、そしてウェットの研究者から協力費を上納せしめることによって返報としてもらいたい。
 そして、ソフトウェア開発者ではない生物学者たち、僕たちはもう少しゆっくり過ごすべきだ。ソファの周りで飛び跳ねるのは、ベンチャーの開発者には必要なことだが、あの女神のヴェールを剥がそうといやしくも考えるものたちには必要なことではない。