父親についていくつか

日記

本当に何も言うことがない生活を送っている。特筆するべきことも無い。ラテンアメリカ小説の翻訳家・研究家が死んだ。これは嘆かわしいことだが、私の話ではない。語ることがない人間は、他人の痛みを知りたがる。

最近思い始めたことなのだが、人類の中には競争していると安心するという人種がいる(例えば私)。
彼らは常に競争できる場所を探していて、競争ができると知るやいなや大挙して押し寄せ、しのぎを削り合い、しのぎ以外の場所まで削り合う。 最終的に儲かるのは、土俵を提供している、毎週ジムに行って汗を流す、とにかく口が回るお兄ちゃんだったりする。ゴールドラッシュとの相似性を書くのはあまりにも容易なので、私はそれをしないことにしよう。

もし、あなたたちがそんなことは無いと思うなら、TwitterやFacebookを見てみるがいい。そこでは今でも激しい競争が繰り広げられている。聖地巡礼という、アニメーションのデータベースをどれだけ処理できたかといった、かなりの程度までかわいらしいものから、今日は数学の本を二十八ページ読んだといった、まさに科学の発展といったものまである。俺が勝った、俺の方が強い、進んでいる……部外者から見ると、これはいわゆるマウンティングと受け取られても仕方が無い。思春期にスポーツができなかったオタクたちが、頭脳とやらで評価され、プログラムが書けると評価されるようになった途端、今までためてきたうっぷんを晴らしているのだと思われても、否定はできない。

しかし、これはむしろグルーミングに近い。実際、競争の中にいる彼らがお互いを憎むことはめったにない。お前に勝った、お前より進んでいる、という宣言は、相手を貶めて、競争から追放するという意味ではない。それは私はお前と戦っている。私はここにいるというメッセージだ。どこにもいかない、お前は孤独ではなく、お前はずっと俺と戦い続けられるという、ある種の包摂のメッセージだ。

ではなぜ、私が競争をやめてしまったのか? ――私は飽きてしまったからだ。

今日の話は、私の父親についての話だ。これは本当の話だが、私の父は今でも存命で、しっかりしていて、実家に帰ると研究のディスカッションまで付き合ってくれる。月並みでないことが求められる世界においては、もはや固有の瑕疵と言えるまでになってしまっているのだが、尊敬する人物の一人として、私は常に私の父を挙げるようにしている。

要するに、今からするのは、嘘の話だ。

1

 私の父はとにかく気前がよかった。
 私が物心つく前から気前がよく、私が山梨県中央病院で産声をあげたとき、隣の流産で嘆き悲しんでいる夫婦に向かって「あそこにいる、うちの子をあげましょうか?」と申し出たほどだった。父親の飾らない態度から、本当に心の底からの申し出だということを理解した夫婦は、その提案を快諾しそうになった。数秒後に激怒し、本当は使うはずだった母子手帳を股間に投げつけた。そして、彼らは家に帰り、流産した子供につけるはずだった名前をもう一度読み上げ、一年間一滴も飲まなかったビールを夫婦で半分ずつ飲んでから、私の父に電話を掛けた。
「お子さんの名前は決めていますか?」
 私の実の父は黙った。それから、「決めていませんよ」と答えた。
 そして、私は、今の家庭に、法律的にクリアな形で引き取られた。そのとき、私の実の父はひどく貧乏だった。私の(真の?)母親はつぎあてのある男の服を着ていた、と私の今の母親はよく言ったものだった。
「そんな貧乏な家庭から引き取られたんだから、うれしいと思いなさいよ」
 その後、私が自己認識とやらを持ってから、妹が一人産まれた。これは私の育ての母の腹からだ。非常にありきたりな話は、ここで書いておこう。妹の方が私より多く金銭を投資された。

2

「その会社にするの?」
「内々定が出たってだけ。別に決めたわけじゃないし」
 電話の向こうで、母親が深くため息をつく。キーボードのタイピング音が聞こえる。すぐに「その会社ねえ」と、グーグルの二番目に出てくるタイプの、表層的な話を始める。ブラック企業なんでしょ。週休二日制と完全二日制は違うんだからね。月給は二十五万無いと、東京じゃ生活できないでしょ。私は「だから」と会話を打ちきろうとする。
「まだ就活は続けるって。もっといいところの面接も進んでるから」
「じゃあこの会社には行かないってことでいい?」
 そうじゃなくて。言い方を間違えていたことに私は気がついた。この会社もそんなに悪くないとか、なんとか、そういう言葉を言うべきだった。私はスマートフォンを耳につけながら、カレンダーを眺める。どうでもいいことばかりが書いてある。明後日は面接だ。どこかの農薬か肥料を作っている会社だった。私の大学でやっていたことと、どうつながるかは分からなかった。ただ、私はきっと何かをでっち上げるだろう。
「あのね、ありきたりだけど、私はあんたの為を思って言ってるの、だって、お金がちゃんともらえない職場なんて、地獄よ」
 それから、彼女は、いつも通り、私のお父さんはどうの、収入がどうの、と言った話を始めた。私は耳の後ろがざわざわするのを感じた。どうせ、次の次くらいで来るはずだと思う。電話の声に集中しないようにする。
「性格も遺伝するみたいだからね。あんたもあの人みたいに、お金配って、墓石とか売って、貧乏暮らしとかやめてね」
 じゃああんたには、と、言葉が出かける。あんたには他人を貧乏って罵れるほどお金があるのか? 自分の腹を痛めて産まなかったから、私のことが憎いんだろ? あんたが私の人生に、何か、一センチでも得になることってしたか? あんたに親父の何が分かるのか? あんたみたいな吝嗇家が口座にため込んだカネが、一体何の役に立つのか? PTAだって、手当がちょっと出るからやってたんだろ? 養子のことなんて全然興味ない癖してさ。
 それらの全部を飲み込んで、「黙ってて」と言って電話を切る。
 もうこんなやり取りは、何十回もしていた。涙も出なかった。涙は見せる相手がいるときにだけ価値がある。私はちょっとへこむだけだ。何より、自分が父が、私の名前の知らないどこかの石切場で、墓石を老人に売りまくっているという事実が、いやに切なかった。彼がもっとまともな人だったら、若人らしい、馬鹿げた夢物語に逃げ込めただろう。しかし、彼はものすごく気前がよく、私は第二次性徴以降、ファンタジーや想像力の世界を失って久しかった。私はエントリーシートを書いて寝た。これは本当にシリアスな世界だった。一方、私には、いまいち、深刻さが足りなかった。

3

 学生時代頑張ったことは云々。私はバカみたいに繰り返す。内心では、「こういうことを聞く会社は大概ダメ」と思っているし、人事が「ドアから入って二秒で決めてる。正直、いたぶる方が楽しい」と自慢げに語っていたのも知っている。私の隣にも、同じようなスーツを着た青年がいて、相変わらずサークルの会計の話をしている。椅子も机も、やけにぐらぐらしていた。リノリウム敷きの床には、所々、正体不明のシミが広がっていた。昔は使われていただろう、ストーブの配管は、スチールの蓋で埋められていた。五人の面接官のうち、四人はすべての興味を失っていて、おそらく、今日の晩メシのこととか、ニュースでやけに馬鹿にされている事務次官のこととか、最近やたら年を食ったカミさんのこととかを考えているに違いなかった。
「へえ、会計してたんだ。じゃあ飲み会とかも?」
「はい。基本的には私がやっていました」
「じゃあここらへんの飲み屋とかも詳しい?」
「えっ、それは、まあ、そこそこです。『みかげいし』で窓ガラス割っちゃって、出禁なんですけど」
「あっはっは」
「ははははは」
「元気があっていいじゃありませんか」
「あっはっは」
 この世の面接の九十パーセント以上はクソだ。考えてみるといいが、こんなやり取りをしたにも関わらず、不採用通知が来てしまったら、それからどうやって人間存在の善意を信じることができると言うんだろうか? 昔、シベリアに抑留された男たちは、二人一組にされた。食事は一つのスープを二人で分け合った。一方が、他方に見えないようにスープを二つに分ける。そしてどちらかにスプーンを突っ込む。もう一方が、「スプーン」か「うつわ」と言って、スプーンの入っている方を取るかどうかを決める。そして二人は食事にありつく。ここにはある種の連帯感があるが、企業の面接にはそんなものは一切無い。人間が人間を裁くなどという、深い構造も無く、私たちは単に処理され、雇用されない。ここに何か語るべきことを見いだせるやつは、きっと毎日ひり出すクソにも理念とやらを見いだすに違いない。
 私に面接の順番が回ってくる。
「肥料の営業と、あなたが大学でやっていた比較文学論がどう関係するのか教えてもらえませんか?」
 私は面接官の顔を見て、あらかじめ決めていたことを言った。要するに、文学とは人間のコミュニケーションのあり方で、要するにモノを売るってのも――特に、特許が切れたモノについては――人情の世界であることは、論を待たないことでしょう。つまり、ここには深い関連があります。実際、ある研究では、比較文学を学生時代に行った学生は、そうでない学生に比べて、営業成績に、統計的な有意差があったとされています。p値<0.05。アメリカ科学アカデミー紀要より引用。
 面接の部屋を出るとき、私はあることに気がついた。私はどうやら、全然、内定というものに興味が持てなかった。なぜか、そういうものはくれてやれと思ってしまっていた。母親からのメールと電話が来ていた。深夜に電話を掛けると、五コール目で出た。そして、彼女はまた私を、単にいびるためにいびった。

4

 靴屋の営業の面接をやり、保険の事務の面接をやり、缶詰工場の事務の面接をやり、大日本印刷の横にあるというだけの会社の総務の面接を受けた。すべて落ちた。最後の会社の管理職は、私の目を見て、
「多分、君は隣の子が入社できれば、それはそれで素晴しいことだと思っているんじゃないのか?」
 と聞いた。私は彼の目を見て、「多分、そうだと思いますね」と言った。
「それじゃダメなんだよ」と彼は言った。私はそんなものなんだろうと思った。
 スマートフォンを見ると、また次の面接が入っていた。ひどく小さな会社で、どうやら石を売っている会社らしかった。
 私は絶句した。石を売る? この世に、どうやったら石を売って生計を立てられる企業があると言うんだろう?
 面接は会社の奥にあるプレハブ小屋で行われた。局地的に雨が降ったらしく、茶色の水たまりがところどころにできていた。エアコンが壊れていて、窓が開けられていた。
「どうも、今日はよろしくお願いします」
 と社長が言った。よほど暇なんだろうな、と私は思った。面接を受けに来たのはどうやら私だけだった。私は月給も調べていなかった。いくつか質問が交わされた。途中で、社長は私の個人的な経歴を聞いてきた。少し話してから、
「それはあまりにも個人的すぎませんか?」
 と注意した。社長は謝った。面接が続いた。
「あなたのような優秀な人が面接に来ることはめったにないことです」
 私は社長の顔をじっと見つめた。本当にそう思ってそうな顔をしていた。高卒かなんかか、と私は露骨に学歴差別をした。
「どうでしょう、うちの会社の内定を出したら、来年から働いていただけますか? あなたの希望にできるだけ沿おうと思うので、何かあれば、ここで……」
 私はもうどうにでもなれの気持ちになっていた。私は「じゃあ私から聞きますが」と切り出した。社長は穏やかそうな顔をしていた。
「じゃあ私がこの会社をくれって言ったらくれるんですか? 私はそういう話をしてるんですよ。身を粉にして働け? 福利厚生を受けてる分頑張れ? こんなクソみたいな場所に行って、じゃあ学生時代頑張ったことを生かしますねって言って、私がベルクソンだのフーコーだのを引用して、中小企業というパノプティコンがどうこう、とか言って、あんたたちが喜ぶんですかって話ですよ。ドン引きでしょ。
 ちょっと考えてみてくださいよ。石屋がある。ちょうどあたしのおうちの塀が崩れてるから、主人にやってもらおうかしら、とか女性規範を内面化したばあさんがやってくる。あらどうもすいません、ここ、ブロック塀って打ってるかしら――アイ・ミーン――ブロック塀のビルディング・ブロックのことなのだけど。で、出てくんのが私ですよ? ああどうもこんにちは。このブロック塀というのは、象徴的な存在であり、実際は背伸びすりゃ中なんて見えンだけど、それでも塀が立ってると、どうしても見るのがためらわれる。これが塀の象徴するものであり、この意味で、あなたはむしろ精神世界、概念に対して金銭をやり取りするんですが、よろしいですか、って、いやバカふざけんなとっとと塀を買わせろって話でしょ? 違いますか?」
 社長は私の目を見て、履歴書を見直して、もう一度私の目を見た。上智大学の比較文学をやっている青年の目というのを初めて見たに違いない。私はかなり差別主義者の気持ちになっていた。社長が言う。
「そうだと思いますね」
 私は言う。
「じゃあ私があんたに『この会社をくれ』っていったら、あんたが私にクソ気前よくはいどうぞって借用書だの借款だの証券化された猫だのをくれるのか? そうはならんでしょ」
「なりますよ。もらいますか?」
 あんたはなんて気前がいいんだ、と言おうとして、私は彼の顔を見つめた。彼は私の顔を見て頷いた。くそったれ、と私は思った。あんたはどこまで気前がいいんだ。