狂うほどロリが好きな理由を教えてやる なぜセックスしないのかも なぜお前がこちら側に来うるかも

もう私にはわかっている。君たちがどんな武器を持って私の脳内になだれ込んできたかが。

生物学的本質主義者たちが列をなしてやってくるのが私には見えていた。『安全な性交』を持ちだしてきた父権主義者たちも後ろに控えている。同意の概念まで引き連れてきやがって。フェミニズムの著作がどえらく積み重なっているのもわかる。ドウォーキンにマッキノン。マリオン・ヤングまでおでましとは。青少年健全育成条例の読経の声。勤行は長く厳しく続く。

もう一方の入り口からは汗のにおいがする。男たちの匂いだ。江戸時代がなんだって? 落ち着けよ。性淘汰? 利己的遺伝子? おまえはどういった種類の実在論を信じているんだ。性的ライバルを無意識に蹴落とすだってよ。禁断の果実がどうの。科学教育を受けたフロイトみたいだぞ。STEM教育の賜物がおまえなのか? テレーズ・ブランシャール的な興味を持ったやつもいるみたいだ。ガチガチの自由主義者は窓から入ってくるんだな、理論武装して……。


最初にはっきりさせておく。口をつぐめ、カスども。文句を付けるんじゃない。黙れ。ただ私の話を聞け。君たちの乗り物であるところの巨人をけしかけるのはそれからでいいだろう。それに、私はここから自制的になるつもりだ。子供に対する性的暴行の含意も一切しない。僕は安全な人間だ。豆乳だって飲んでいる。

私がこれから証明したいのは、一つの定理である:我々は子供しか愛せないのだが、にも関わらず性交をしようとは思っていない。


違う。ひろみちお兄さんと私を混同しないでくれ。私は子供のかわいさを愛おしく思っているわけではない。お願いだから筋道を立てて話すことを許してくれ。私はまず我々を三つ――ないし、四つ――の区分に分ける。

  1. 現実の子供が性的に好きな人間――彼らのことは端的にロリコンと呼ぼう。彼らがそれで性的欲求を解消するところのものをロリと呼ぼう。
  2. ハンバート・ハンバート――彼のことはHHと呼ぼう。彼はナボコフの『ロリータ』に住んでいる。1.の区分とHHは、少なくともその実在に関して異なっている。
  3. フィクションの子供が非性的に好きな人間――これが私たちが居を定める場所だ。
  4. それ以外――ロウきゅーぶ!のまほまほやプリコネのコッコロちゃんでシコる理系大学生と君たちが居を定める場所だ。居心地が悪いかもしれないが、それが共生という言葉の意味だろう?

定められた法令が定める手続きに従って、君たちは不服申し立てを行ったかもしれない。つまり、この区分は出来損ないで、明日もう一度ここに来ればよりよい区分――究極の区分――を示せる、と。

もしくは、次のようにいうかもしれない。もしこの前提に立つならば、あなたの言うことは私には全く関係ないことで、それゆえ、あなたの文章を私が読む必要は一切なく、加えてあなたはキモく、従って、あなたは薄暗くじめじめした半地下で、5200ルーブリの年収でももらって過ごしていればいい、と。

私は一つ目の反論を無視する。こういうやつが実際に何かをすることはないからだ。悔しかったらブログ記事書いてみろよザコ。ざぁーこ。子供にバカにされてうれしいんですか? 本当に変態ですね。気持ち悪い。足で踏んであげますよ、ほら(ところで、足以外でどうやって踏むのだろうか?)。

二つ目の反論には正確に反論しよう。誰だって少女を好きなりうる。あなたが男好きだろうが、すでに知命に達していようが、既婚だろうが、ミソジニストだろうが関係ない。日本語と英語と仏語ができ、博士号を持ち、大学教授で、科学者で、論理的思考ができ、データ解析がお手の物で、即日、総理大臣になることができようが、あなたは少女を好きになりうる。お互いがその関係を結ぶことに合意した甘い犯罪に落ちうる。

そして、これはきちんと証明できることだ。

以下、証明の概略を述べよう。

  1. 大前提:人は中学生の時に好きだったものを生涯好きになる。
  2. 小前提:あなたは中学生の時、同級生の子を好きだった。
  3. 結論:あなたは生涯、中学生が好きになる。おまえはそこにはりつけにされる。亡命ロシア人に採集されて展翅される蝶のように。あなたの翅がもう一度乾いて、オニユリの咲く暗い泉で精霊がそのピンを引き抜くまで。

思い出してこないだろうか。彼女のばさばさの髪があなたの首を刺す。あなたに早く歩けよという。あなたは思い出してきたはずだ。そいつが先頭に立って探検をしていたときのことだっただろ。そいつが側溝に落ちて脛をすりむいたんだった。皮膚が削れた。何秒か白い肉が見えた。それから血が流れた。あなたはそいつを背負って家まで帰ったんだった。服に血がついて落ちない染みになる。涙のほうはすぐに跡形もなくなったのに。その服もすぐに小さくなってしまう。記憶が糸なら思い出は布だ。服が切り刻まれ、天ぷら油を吸い、捨てられ、そして我々はそのことを忘れた。

まだ思い出さないのか。そいつはいつも本を読んでいた。猫の本だった。ファンタジーも読んでいたと思う。今になってくると笑えるラインナップだ。『七つの封印』『デルトラ・クエスト』『ダレン・シャン』『ネシャン・サーガ』……『指輪物語』を何度も借りては返していた子だ。難しいんだよとトールキンを呪っていた声を思い出すはずだ。毎月20冊も本を読んでいた。廊下に面した窓が台風でガタガタ音を立てた。雨が降っていた。10月の台風は強くなるんだってとそいつが言っていた。暖かそうなタートルネックを着ていた。置き傘がまた取り違えられる。彼女はおまえにピンク色の傘を貸す。

思い出してきたんじゃないのか。八幡神社のお祭りには行ってはいけない。不良が来るから。もちろん誰も守ってはいなかった。家族と一緒に来たり、友達と紛れ込んだりしていた。ポーチのPSPにはモンハンのUMDが入っていた。夜が湿って重くなる。蚊取り線香の匂いがする。オレンジ色の夜店と青い殺虫灯の光があたりの景色を変えて、どこか違う惑星に私たちを引き込んだ。その子も来ていた。陸上部の友達も何人かいた。Tシャツの袖をまくっていて、脇が見えそうになっていた。おまえはちょっと話した。来てたんだ、なんとなく、どこいくつもり、適当にぶらぶらして帰る、そうなんだ。そしてすれ違う。おまえは振り返る。あいつも振り返らないかと期待している。雨の降りそうな匂いがする。おもちゃの銃の音がする。その後どうなったか覚えているか?

もちろん、これらの記憶は完全に嘘で、捏造された記憶だ。私もこのような経験はない。あなたにももちろんない。しかし我々はこのあらすじを覚えているし、自治会の放送がどんなメロディで五時を告げていたか、窓のサッシが何色だったか、結局雨が降ったのか、すべてをいくらでも都合よく設定できる。

君たちも作れるはずだ。もうTweet垢のついた表現だが、『ひまわり畑と白いワンピースと麦わら帽子の少女』なるイメージで喚起される『完璧な夏』を思い浮かべてもらえばいい。ビリー・リンの方ではなくて。私たちは少女のイメージを持っている。それを好ましく思う。

君たちが即座に口を挟んだのがわかる。感傷の話に話題を逸らそうとしたな。口をつぐめ。舌をそぎ落とせ。おまえに必要なのは一枚の舌ではなくて二つの耳だということを思い出せ。これは感傷の話ではない。贖えなかった痛みの話でもない。君たちが毎晩えぐるためにえぐる傷口の話でも、諸君らの何も起きなかった――しかしそれゆえに嘆かわしい――過去の話でも、深い河の中で、何度も姿を変えて 少年が少女に会 ( ボーイミーツガール ) いつづける話でもない。

これは私たちの想像についての話だ。ここで問題なのは、それが作れるということではない。それを好ましく思うことでもない。問題なのは、常にこの(無声)映画的な風景の中に子供がいることだ。なぜ彼女はここに存在するんだ? 誰が連れてきたんだ? なぜ――これが私たちがビバークする場所だ――なぜ、ここに彼女がいるのだろうか? なぜひまわり畑に単においてある白いワンピースと麦わら帽子を私たちが見ているだけではいけないのか? 

なぜ彼女は常に私たちにつきまとうのか?


私たちは気がつき始めたはずだ。レンタルビデオ屋に行ってみてほしい。Netflixでもいい。Huluでもいい。Amazon Prime Videosでもいい。ラインナップを眺めてほしい。名作、傑作、笑える映画、アクション映画、恋愛映画、哲学映画、カルト、グロテスク、エロ、連続ドラマ、自主制作、SF、ファンタジー、この網羅的でも排他的でもないぼやけた迷路をあなたの目が走る。Yahoo!映画ではすべての人がいっぱしのキュレーターの顔をしている。それを泳ぎながら、我々は一つの概念を発見する。すべての人が暗黙的に隠している概念を――ロリ映画という概念を。

一体、何が起きているというのだろうか。ハリウッドはマチズモの芸術だと断定したフェミニストがいるが、それは間違っている。ハリウッドは白人のかわいい少女のための文化だ。ヨーロッパの映画も例外ではない。全ての力は白人のかわいい少女のために使い果たされる。そしてそのことを私たちは受け入れる。

我々の想像は正しい。映像の世界において、少女はありとあらゆる場所にしみ出している。ミュージックビデオでも。地下鉄のコマーシャルでも。広告でも。正月に会う従姉が見せてくる映像でも。ポルノの世界においてすら、もはや熟女になすすべはない。人妻という言葉は徐々に消え失せ、すべては子供の文化になっていく。すべてのカテゴリがミニマム系へと収斂する。しまった、私は冒頭で、このような性的暴行については語らないことにしたのだった。私は今の発言を取り消そう。私は安全な人間だ。豆乳だって飲んでいる。

しかし、なぜ少女がここでも現れるのか? プロットの裂け目から、想像の安置所から、KIPから、エンゲージメント率目標から、なぜ、細く、マニキュアの塗られていない、ハンドクリームの味を知らないあの指がのぞくのか? パスツールよ、あなたの煮たチキンスープの中からは少女たちが発生するのだろうか。


本棚もすでに占領地になっている。本棚に少女たちがぎっしり詰まっていることを、今しがた私は発見した。少女の腕、足、太もも、つま先、カラスの色の髪の毛、濁りのない目、指、胃、まとう匂いや彼女たちが今朝食べたもの、それらがすべて、インカの石積みのように毫の隙間もなく本棚に詰め込まれている。紙片の形をとって。一冊を引き抜くと、八阪井夏月という少女がこぼれ落ちてきた。私は彼女のことをしばらく眺めた。私は当然のように――それがそうなるべく設定されたかのように――彼女に好意を持った。そして私はこれを説明したいと思っている。

馬鹿にしないでほしい。あなたの本棚を見てみてほしい。誰だって本棚くらいは持っているはずだ。あなたの頭の中にも立派なものがあるじゃないか。眠れない夜に潜り込む想像上の書架を歩いてほしい。そのボルヘス的な迷路を歩き、一冊一冊の背表紙をなで、そこにいる少女の名前をつぶやいてほしい。ああ、私の本棚には未だに『蟲と眼球』シリーズが置いてある……(ちくしょう、なんなら私は『ムシウタ』だって好きだ)。


ここで私たちは野営地に戻ることにする。私が答えたい疑問――なぜありとあらゆる場所に少女がいるのか。

この問題について考えることは、私たちがなぜフィクションの少女たちに好意を――それも、被-去勢的好意を――持たざるを得ないのかについての手がかりを与えるはずだ。しかし、このベースキャンプにシェルパはいない。私たちは自分たちの食料を自分たちで運び、ルートを――おそらくすでに踏破されている経路を――探さなければならない。


ここで私は、密かに避けていた話題をやっと持ち出すことができる。『ロリータ』のことを。

『ロリータ』を未読の読者のためにロリータのあらすじを説明しておく――ハンバート・ハンバート(HH)という男が、ローティーンの少女ドロレス・ヘイズ(ロー)と性的な関係になる。やがてローは逃げる。しばらくして、HHはローを見つけ出し、一緒に住もう、ここから52歩で私の車がある、そこまで何も言わずについてきて欲しい、そうしてくれたなら新品の神を創造して絶叫をあげて彼に感謝するというが(記憶は曖昧)、ローは「頭おかしいんじゃないの」と取り合わない。HHはローが逃げる元凶になった劇作家を殺し、逮捕され、死ぬ。

もちろん、我々はここでテレーズ的なところから距離をとる。『ロリータ』における性描写は『ロリータ』に不可欠だが、我々のスコープには入れないことにする。それは単に、私が無害で安全で約束を守る人間だからだ。それに、私は豆乳だって飲んでいる。

また、ナボコフが仕掛けた表層的な仕掛けにハマることを注意深く避けなければならない。例えば、ナボコフがHHに語らせる”ニンフェット”の定義と、ストーリーにおけるローの年齢変化などには気をかけない。

この逃避は重要だ。実は、私はある指摘をずっと後回しにしてきたのだった。君たちがずっとその質問を喉にためてきたのを知っている。今まさに、後ちょっとでも私が論を進めたら、その質問を手に私に飛びかかってくることを知っていた。危ないところだった。私はより一層、厳密さを私自身に課す必要がある。

その質問とは、では、その少女の定義とは何ですか? という質問だ。

ロリの定義――あなたたちはこれを求めている。実際、HHはそれを年齢によって区切った。悪いことに、これは人口に膾炙した表現にすらなっている。何歳から何歳までが何々症候群、といったように。

確かに、小三がいいとか、JCが最高だとか言うロリコンもいる。それが合理的な定義であり、まさに科学だといわんばかりだ。しかし、彼らはJCの多様性に気がついていない。すずらんとパンジーを『青い花』とまとめるのが不適当なように、香川県の田舎に住む須田里音(15)と都心でSAPIXに通う飯田羽(13)を同じ部分集合へとまとめるのは不適当だ。女子中学生が最高とのたまうロリコンは、私からしてみれば『少女』という情報を愉しんでいるに過ぎない。彼らはイデア主義者――唾棄すべきプラトン、平均値の奴隷だ! 私は年齢で少女を差別しない。ロリは体。冗談である。

加えて、私はデリダ的な意味でのパフォーマティビティから規定されるロリータ性の実在論も破棄する。私は何を言っているんだ? デリダ的な意味でのパフォーマティビティってなんだ? ロリータ性の実在論って何だ? まあいい、忘れてくれ、とにかく、「私がロリータであると私が決める」といった形の自己規定を認めない。

というのも、この道は極めて胡乱で、蒙昧としているからだ。

第一に、もし自己規定的なロリータのみが存在するならば、我々はどうやってロリについて語ることができるだろうか? 我々はそう簡単には他人の精神には踏み込めないものだ。ウィトゲンシュタインもこれにはにっこり。

第二に、これを認めてしまうと、FANZAでX7歳の女子Y生と謳って頒布されるビデオを認めることになってしまうからだ。特に許せないのが、如月ましろと東条蒼である。こいつらは女子高生のカテゴリに入るに飽きたらず、FANZAの素人欄にまで闖入してくる。言え。彼らはロリの僭称者であり簒奪者であり、その咎によりこの世界は毀損され、神の御手すらこれを修復することは能わない。世界は完全かつ不可逆的に損なわれてしまった。これが原罪であり、現代のカインとアベルである。かわいいので抜きはする。正義と 自慰可能性 ( オナビリティ ) は別。それは本当にそう。しまった。私はまた性的暴行について話している。私は安全で、犯罪歴はなく、豆乳を飲んでいる。


では、私たちは何を基準に語ればよいのか? 私たちはここでアブダクションの手法をとることにする――直感的にロリな事象を集め、それからルールを推論し、そのルールが十分にロリな事象を説明するかチェックするというアプローチだ。もちろん、フィクションの世界におけるロリの理不尽な遍在に興味があるのだから、実際のロリータを観測する必要はない。特に、公園に出かける必要はない。彼女たちの服や脚を眺める必要はない。僕はそうしている。私は落ち着いていて礼儀正しい人間だ。豆乳も飲んでいる。公園に出かけるんじゃない

ここにおいて、私たちの最初のイメージが鍵になる。『白いワンピースと麦わら帽子の少女』、そして、まなざしと性別しか残していない我々を思い出してほしい(すべての『白いワンピース』について、観測者としての男の存在を私は明確に感じる)。そして、ジャンレノ演ずる不器用な殺し屋と、ナタリーポートマン演ずるくそかわいくて賢いロリが過ごすときの、あの完璧さを思い出して欲しい。アディとモーゼがトラックに乗り込んだ時の、あの調和を思い出してほしい。帽子に縫い込まれた100ドル札のことを。狂犬病の犬に噛まれた少女と神父が邂逅したときのことを、そしてあの牢獄で睦み合ったときのことを思い出してほしい――シエルバ・マリア、僕も君が好きだ。

これらの類型から、私たちは一つの性質を導くことができる。それはロリについての性質ではない。幸福な家庭はどれも似たものだが、ロリはそれぞれに違っている。不幸なものから幸福なもの、賢いものからクソガキまで、未熟児から玉のような子供まで……ロリの分散は極めて大きく、私たちがこれらから直接なにかを引き出すことは不可能だ。

しかし、ロリは必ず何かが同伴していることに気がつくはずだ。ロリが単体で、まるでメロンのように荒野に転がっていることはありえない。必ず彼女には庇護するものか庇護されるものが随伴する――いや、その役割は仮定しないでおこう。マチルダにはレオン、アディにはモーゼ、シエルバにはカエターノ。あなたが思い出した景色はすべて、あなたの存在を仮定するはずだ。あなたはアクターで、ロリと何か相互作用せずにはいられない。ひまわり畑を背にしたロリは何事かをあなたに言う。そしてあなたは何かを答える。世界は完璧に見える。ああ、地球の回転を止め、太陽の核融合を止め、エントロピーが大域的にこれ以上増えないようにする力があれば。

ここに鍵がある。はっきり言えば、私たちは、実のところ、ロリなどは求めていない。よく聞いてほしい。私たちの見てきた実例の不変量は、実はロリそのものにあるのではない。ロリとその随伴物よ完璧であれ、というのが私の提案する保存則だ。リンゴを二つに割った時のことを考えてほしい。その切り口は複雑になり得るが、二つをぴったりと合わせればまたリンゴを組み直せる。これと同じように、私たちは完璧なものを二つに割り、そのうちの一方をロリに、そしてもう一方を随伴物へと分配する。

まさに、この原理がすべてを解決するのがわかるはずだ。ロリがロリであるのは――相補的にではあるが――私たちがどこまでも非-ロリだからだ。彼女が賢いのは、私たちが無能でカスで奨学金の負債が貯まっていて人生が色々うまくいっておらずどうしようもないからであり、彼女たちが性的に成熟していないのは私たちがどこまでも成熟しているからだ。ライムライトに照らし出されたかのように、すべての要素は相補的に定まっていく。そして、その相補性ゆえに私たちはロリに紐付けられる。もとより私たちの生み出した想像なのに、私たちの自由はここで奪われてしまう。皮肉を感じ取ってもらってもかまわない。

待ってくれ。振り上げた刃をゆっくり下ろしたまえ。私の首筋にだとしても。私はここで、次の3つのことをいいたいのではない。

一つ目に、創作における基本定理を私はここで提出しているわけではない。むしろ、私はそのようなスタンスを深く憎んでいる。シャドウ、行って帰る物語、損なわれたものを取り戻す、プロップの31の類型――そんなものは大塚英志的な創作者に食わせておけばいい。現代的で社会問題を反映させた人間的に深みのある一挙一動一投足が解釈可能なキャラクターたちに任せていればいい。くそくらえ! 実際、上の定理からはどのようなキャラクターも作り出せないはずだ!

二つ目に、私は、これによって物事を完璧さの観点から理解しきったと宣言するつもりはない。実際、私はルビンの壺における図地関係――つまり、どちらかが『地』を構成すると、片方が『図』を構成する――を述べたに過ぎない。それに、物事を素晴らしく見せるのはその合成的な完璧さではなく、その完璧さをどのように崩壊させ、分配しているかなのだ。私たちは切られたリンゴをその切り口によって評価する。適当に書き殴った絵も図と地を分割するが、ルビンの壺の美しさには遠く及ばない。

三つ目に、私はここで、こっそりと『完璧であることはよいことだ』という価値判断を密輸するつもりはない。実際、愛のあるセックスによって『二人が一つになる』とほざくものがいる。私はこの提案を即座に却下するのみならず、この発言をしたものの人権のみならず動植物の権利――つまり、命があるものの権利――さえ蒸発させ、しかる後に権利に見合った状態に送附してもいいと私は考える。人語でいうと、こういうことをいうやつはもう死刑でいい。というのも、これは間違えているだけでなく、現代の外科手術に対する明確な冒涜ですらあるためだ。愛のあるセックスごときで二人が一つになれたら、臓器移植はもっと簡単になっている。加えていうならば、後でいうように、ここで見る完璧さはじつは見せかけのものなのだ。


さて、この原理に照らしてみれば、白人のかわいいロリが出てくる映画になぜ白人のかわいいロリが出てくるかが理解できるはずだ。その映画が描く完璧さの分割線を鑑賞する余裕がすでに我々にはある。書物に、宣伝に、その他あらゆる媒体に繰り返しなぜ彼女が現れるかを合理的に解釈できるようになっている。すでに全てはおそるには足らない。進め。私たちは彼女を調伏しつつある。

捏造された記憶へと版図を広げよう。その記憶をつぶさに見ていくと、私たちは同様の原理が裏で世界を調律していることが分かるはずだ。二人で考えた探検の計画は、いつの間にか気弱な私を勝ち気な彼女が連れ出したことに改竄される。ハンカチでぎゅっと傷口を縛り、同じくらいぎゅっと口を結んで一人で歩いていた彼女は、気がつけば私の背中に体を預けている。私と同じくらいの存在感だった彼女は、いつの間にかクラスの中心人物へ――私はいつも一人でいる陰キャにすり替えられる。差異が強調され拡大され、ピースの形はあらまほしき型へと造形される。図は図らしく、地は地らしく。記憶で作られた塑像はやはり作り物でしかない。

にもかかわらず、私たちは彼女とセックスしようとは思っていない。


私たちがどのように性交すればいいか実地で試した後も、様々な性技を会得した後も、私たちは彼女に対して不能であり続ける。まるでかまぼこが何でできているか知らないとでもいうように。雨のバス停でのセックスも、神社の薄暗い陰での逢瀬も、忘れ物を取りに帰ってきた放課後の教室での性交も、私たちには奇妙に遠く思える。何度、空想をやり直してもいい。どのように時間発展させても、私たちの想像はそれにたどり着かない。

エデンの園配置――この状態にたどり着けない理由を述べるのが、私たちの登山の最終目標になる。


さあ、今一度思い出してみてほしい。あなたが政治と概念の世界に投げ出されたときのことを。あなたが扇状地や織田信長や三権分立や硫化鉄から引き抜かれ、パチものの秩序に投げ入れられたときのことを。その水の冷たさを。人種を含むありとあらゆる差別を、格差を、この世に存在する想像を絶する富豪と窮乏を知ったときのことを思い出してほしい。そして身体や性別、その他人生のほとんど全ての側面が限りなく複雑な諸相に砕かれたことを思い出してほしい。

そのときだ――私たちのあどけなく簡単だった完璧さが奪われ、もみくちゃにされ、否定神学の領土へと連行されたのは。


君たちがまだ振り上げた刃を止めていないのが私にはわかる。むしろ、それは私の首筋にどんどん降りてきているようだ。その鏡のように研がれた表面に、ちゃんと作品を評価しろよと書いてあるのがわかる。その通りだ。私は作品をちゃんと評価していなかった。不幸な結婚式のように、私は最初の一口ですべてを決めてかかっていたのだ。

わかっている。レオンは死ぬ。 紙の月 ( ペーパームーン ) に腰掛けていた少女は、一文無しでアメリカ中西部をさすらうことになる。少女たちは教会で自分たちを火の食物とする。カエターノは破門され、シエルバ・マリアは一粒食べるごとに一粒増えていくぶどうを二粒ずつ食べることで無限との競争に打ち勝って死ぬ。すべてのロリが出てくる物語は簡単には終わらない。ならば何が完全なものか。その完璧は見せかけだった。私は絵筆もとらずに狸の皮が描かれた絵が餅代になるかと考えていた。

しかし、私を腫れ物で打つのはやめてくれ。それこそ、私が今から語ろうと思っていたことなのだから。

言おう。私は先ほど、偽の論証を行っていたのだ。私はある一つの検証を怠っていた。それは、ロリとその随伴者を組み合わせることで、本当に完璧さが復元できるか、という検証だ。ルビンの壺の向かい合った顔は描けていたとしても、一歩下がったら、それは額縁などにはまるで収まっていない――このようなケースから、我々は目を逸らしていた。

そして、実際、ロリと非-ロリの複合体は惨めなほど不完全だ。第一――考えてもみてほしい――中年男性と少女があるだけで人類一般の諸相を汲み尽くせるなど、誰が考えるだろうか? 記号処理から言語野やコミュニケーション能力に渡る無限の知能スペクトラムを、たった二つの大脳で十分に表せるだろうか? 富めるもの、病めるもの、与えるもの、追われるもの――これらの相反するものをたった二人に分配することなどできるのだろうか? 黒、茶色、青、緑、そして白の瞳の色をどうやって四つの目玉に書き込めるだろうか? 4羽の鳩が5個の穴に入るとき、少なくとも一つの穴は空に残される。これは( カルマ ) の話ではなく、数学の話だ。肌の色、無数に分かたれる性別……そのすべてのパターンは二人で分け合うにはあまりにも多いのだ。黎明郷も二つのシリンジの前で尻込みすることだろう。

だから、ロリとその随伴物は完璧ではない。白いワンピースも、ひまわり畑も、麦わら帽子も、あなたも、すべてを撚り合わせても完璧は遙か遠くにある。神の国に。


だが、私たちはまだ捨てられない。これが完璧だと言い張りたい。複雑な現代社会の機構に取り込まれ、個性がなく画一的になる前の素人みたいな完璧さを私たちは捨てられない。しかし、いまここにあるロリ-非ロリ融合物が完璧だと断言するほどの蛮勇もない。豈、完璧への( かつ ) えをいかんせん。竜安寺のつくばいから520キロメートル遠く、私には何も手段がない。

その通り。私たちは総体としてのロリ-非ロリが完璧であると信じている。一方で、それが完全であり得ないことも十分に理解している。ここで明確に議論は――私たちの旅は――行き詰まる。どこにも行き場がないように思える。残された道は、これまでの議論をプラハの市庁舎から投げ捨てて、すべてを忘れることしかないように見える。

にもかかわらず、このアポリアが私たちの最後の橋になる。そう、私たちはこのアポリアを解決はしない――アガンベンの言葉を借りるなら、この完璧さは常に潜勢力として表現されることになる。宙づりになるといってもいい。ロリと非-ロリは徹底的に分割して描かれ、そこに合一の香りは与えられない。しかし、それによって逆説的に、私たちは審議官に逆のナイフを突きつけることもできる。もし――私たちはこう叫ぶのだ――もし、これらを組み合わせて完璧になるのだとしたら、お前たちはそれを認めるのだろうな、と。

もちろん、この恫喝が実を結ぶことはない。それらが常に現実の諸相のうちのどこかを見逃していることを、我々は知っているからだ。だが、私たちはこの食い下がりを、永久に続けることができる。この可能性に莫大な金を賭すことによって、そのオッズを理不尽にあげることによって、その検証を無限に宙づりにすることができる――セックスなどもってのほかだ!


ここにおいて、我々はすべての議論をやりきった。議論をまとめよう。

まず、我々はみんな、完璧がなんであったかを知っている。今見ると、極めて稚拙で、不完全で、犯罪的ですらあるにも関わらず、とにかくそれは完璧だった。その完璧さゆえに、それは私たちを惹きつける。そして、その完全性の中に、私たちが私たち自身を配置するとき、私たちの陰として――完璧さのうち、我々の存在で表現できなかった残りのものとして――少女が自然に出没する。いかなるフィクションも、それが完全性を目標としている限り、同様の原理によって彼女が現れる。

一方で、私たちはその完全さが嘘っぱちであることを熟知している。従って、十分賢くなってしまった我々は、それを受け入れたいにも関わらず、受け入れることができなくなる。このアポリアを解決する方法が、その完全性が現れることを注意深く避け、無限に宙づりするというアプローチになる。まさにセックスは禁忌である。性交によるプロットの解決またはロリとのセックスは、フィクションにおけるアポリアを解決する手段としては、永久にこれを放棄する。あなたのお好みの条文である。

これで終わりだ。何で狂うほどロリが好きなのか説明してやった。なぜセックスしないのかも。あなたがなぜこちら側に来うるのかも。だから私を放っておいてくれ。静かにしてくれ。私は安全でなにも悪いことはしてない。公園にも行っていない。豆乳も飲んでいる。彼女は記憶のずっと遠くにいる。

そうだろう?



(東京)足立区南花畑4丁目で凝視 7月1日夕方

2021年7月1日 25:00

警視庁によると、7月1日午後4時頃、足立区南花畑4丁目の公園で女子小学生への凝視が発生しました。(実行者の特徴:中年男性、スポーツ刈り、小太り、日焼け肌、身長高め、白色半袖シャツ、ハーフパンツ、黒色帽子、ウインドブレーカーを持つ)

■実行者の言動や状況

■現場付近の施設


参考文献

この文章はもちろんナボコフの『ロリータ』を参考にしているが、サムコ・ターレ『墓地の書』も参考にしている。以下、そのほかに参考にした論文やブログを列挙しておく。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kasei/70/0/70_157/_article/-char/ja/

https://kdu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=873&item_no=1&page_id=13&block_id=21

https://meigaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3005&item_no=1&page_id=13&block_id=21

http://outofthekitchen.blog47.fc2.com/blog-entry-34.html

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/54746#.YNqziExUthE

http://repository.tufs.ac.jp/handle/10108/23702