Category:日記

走らされすぎたメロス

日記

これはおそらく日記ではない。

私は八角が好きではない。スターアニスとおしゃれっぽく呼ばれているのもかんに触る。スターときてアニスと来ると、私の頭には肛門だとしか思えない。スターでアヌスだぞ?

子供の頃、豚肉の煮物の中に八角がよく入っていた。 我が家の煮込み料理は基本的に煮込みすぎで、しょうが、にんにく、八角などの小さな内容物は全て煮砕かれ、『名付け以前』とでも言うべき原初状態を取り戻していたため、私があのフレーバーと八角を結びつけるのもずいぶん遅れてからだった。 したがって、八角が嫌いだと私が自覚したときには、私は既に好き嫌いを言っていられるような年齢ではなくなっていた。それゆえ、私は嫌いなものをそれと知りながらずっと食べ続けることになった。 これが私の精神的発育にもたらした影響は計り知れない。

これは私の好き嫌いの話だった。この話をしていたら、私が八角を八角だと認めた頃の記憶がよみがえってきた。それは中学何年生かの時で、暇つぶしに読んでいた国語の教科書には、確かこんな話があった……。

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アニスである。

むなしいチーズケーキの作り方

日記

サカナクションの『新宝島』を聞くたびに、どこかで会ったような中年女性の顔を思いだし、不吉な予感を覚えたものだった。考えた末、中国の卓球選手『丁寧』の存在に私は行き着いたが、正確を期すなら、実際に脳裏をよぎっていたのは王楠だった。これは私の記憶の話だ。そして今からするのはチーズケーキの作り方だ。

リフトオーバー

日記

さて、日記など書いている場合ではなく、いろいろやるべきことがあるのだが、にもかかわらず、飲酒をした次の日というのは、えてしてこのようになりがちだ。 つまり、午前10時頃に置きて、(朝?)ご飯を食べ、空を眺めているうちに眠くなり、二度寝をして起きるということだ。脳のしんの部分が完全に固まっている。

知らない間に、郵便受けに入っている書類を盗まれたような気がする。それがパラノイアだとも分かっている。 一方で、私は『何かが奪われたようなきぶん。ぐらぐら。』みたいな、九九の七の段すら怪しいようなことを言うには、あまりにもコンプレックスがひどすぎる。 昔のインターネット的な語法で言ってやろう。コンプレックスひどすぎワロタ。

もうすでに12時で、ナショジオでは相変わらず獰猛な自然とやらの厳しさが描かれ、ヤマネがころころ掘り起こされては皮をなめされ、どこぞのロシア女の襟巻きになっている。 カムチャッカの朝がどうの、ニューヨークの昼がどうの、とくたばり損ないのじいさんが言っていたのも今は昔、海底と宇宙に可視や不可視のケーブルが張り巡らされ、 すべての恋人たちが、これまでに間違えた恋人たちを数えること以外に、快楽を覚えていない今となっては、あの老人はひどく哀れに思える。 もしくは、私は詩人に期待しすぎていた。

一切の重みがない生活というのは、かなりの点で気楽で、私はそうなることを私自身に課している。くそっ。今日の私の日本語はとてもよくない。あなたはウィークエンドに何をしますか? 私は週末ジョギングをして過ごしました。私のおじもジョギングが好きです。ところでそこにあるのはヴェンディングマシーンですか? 私のおじは毎週三回ヴェンディングマシーンになります……。

弟について

日記

さて、世の中には、文頭の一字あけや『?』の後の一字あけは文章そのものにコードするべきだという立場と、組版の段階で、組版ソフトや人が行うべきだという立場の2つがある。

前者の方は、一般に学校で教わるものだ。これの優れたところは、自分の文章をほとんど自由にコントロールできるというところにある。 つまり、どの場所で改行するかはもちろんのこと、文頭にどのくらいのスペースが空くか、行と行の間隔はいくらかまで含めて、文章を書くことを書き手は要求し、実際にそのとおりにする。 この立場においては、文章とその表示において、表現者というものは書き手に限られている。読み手は書き手が書きたいと思ったものを直接的に受け取り、そこに 他の媒介物はない。純粋な二者のコミュニケーションが図られる。

一方、後者の立場は、この純粋なコミュニケーションと言うものの成立を疑うところから始める。例えば、私達が持っているスマートフォンやパソコンは多種多様で、そこに、書き手の書こうとしたものが、正確に表示される保証はない。Webページに貼られた文章の多くは、ディスプレイのサイズに合わせて表示されるからだ。紙に印刷された文章は、モニタに映る文書とは異なった質感を持っている。フォントの形によって、文章の印象は、がらりと変化する。何よりも、視覚に障害を持つ人にとっては、そもそも、文章を整形するという概念を、正確に伝えることが難しいだろう。それに、文章を用いた二次創作――書道など――は、この純粋なコミュニケーションというものがまさに存在しないからこそ、その美学があるのだ(さもなくば、単に同じ文字が書かれているだけだ)。

したがって、この純粋なコミュニケーションという枠組みは、棄却される。そして、この、書き手と読み手という、今や分かたれた二者の間に現れるのが、いわゆる組版ソフトであり、他の表現者であり、何らかのメディア――まさに『媒体』としてのメディア――なのだ。この立場からすると、改行の幅、フォントのサイズ、表現のデバイス等々は、すでに書き手の手の届かないところに存在する、美学的なものになる。もちろん、もとはパラグラフの先頭を探すためのマーカーであった文頭の一文字あけも、この例外ではない。例えば、パラグラフ間を広く取る組版システムにおいては、文頭で一文字あけるのは、それこそおせっかいというものである。

要するに、多くの場合、我々が書くものは、我々が見ているものではなくなってしまう。

今から話すのは1994年の1月21日に兄を亡くした弟の話だ。

いくつか

日記

私は酔っている。異常なことを書いてしまう。私には私が止められない。これだから酒は嫌いだ。私はひどく酔いやすく――じゃあなんで飲むんだよ、キャハハ!――そして狂気はこのときにだけ元気になる。 しかし私は知っている。酒は狂気のカンフル剤であって、狂気の食物でない――よく言ったもんだよ! チャハハ!

続きを読み給え。あなたが十分に準備が出来ているなら。

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