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間違えた若さについていくつか

日記

織姫と彦星。私達はおそらく夢を見すぎている。たった一組の恋人たちに、何をか望まん。ゆっくり寝てしまえばすぎる夜だ。数十年前の七月六日、甲府の空にはB29が飛び交い、油の火が人の皮膚を焦がした。たった少しの水だに、彼ら天上の恋人たちは、差し出すことができなかったということだよ。
個人的な倫理にまかせて言えば、死に瀕している者へ、そのような仕打ちをした恋人たちに、私のいかなる願いも、成就してもらいたくはない。織姫、あなたの手はとてもよくない。

おそらく私は中程度に性格が悪く、そしてこれからもそうだ。あなたは私を非難できる。

ところで、私の過去の悪行に対して、私はどのようなみそぎを行えるだろうか? そもそも、そのようなみそぎが許されるのだろうか? とにかく、わたしの手はとてもよくない。私は最近、このようなことをよく考えている。私は加害者の立場でものを考える。この立場においては、誰かを恨むことをしなくてよい。

事実上のものとやらについていくつか

日記

しばらく時間があいた。梅雨があけ、夏がやってくる。ただゆく川の水が変わることなれば、なんにかはせむ。とは言っても、単に時間がすぎること、地球の軸が太陽光線に対して少しだけ傾いているだけのことなのに、徐々に気温が変わっていくということこそ、ものぐるほしけれ。

仕事は順調に進んでいる。それ以外に、僕の生活について語るべきことは、特に無いように思われる。ところで、本来、ここにある生、まるごとの自分に関して、生活と叙述することは、あまり奨励されないはずだった。

もちろん、違和感を文章に埋め込むことに関して、私は随分進歩してきた。

家についていくつか

日記

 ところで、一週間に一回しか書かないならば、もうこれは日記じゃないだろ謝罪会見だ謝罪会見、報道各社にFAXを流せ、ついでに、旧態依然とした報道のあり方をちょっとくすぐってやれば、あなたも少しは有名になる。私はなんの話をしているんだ? 私は雨にすべての責任を帰す。実情は異なり、私は意識的に、雨の日は抑うつ傾向になるようにしている。あなたは不気味さを感じることができるし、あなたが不気味と思うことを考えて私は書いたのだから、特段、あなたが引けめを感じる必要はない。

 何冊か本を読んだ。最近、気がついたことだが、僕はおそらく、本を読みすぎている。この世において、一体どれほどの人々が、外国文学を読み続けるというのか? 僕はかつて、この数字を、かなり大きく評価していた(一億人くらいだ)。というのも、僕たちの多くが、ゲイのカエルとゲイのカエルの本を読んだことがあるからだ。もちろん、僕たちは無意識的に、『読んだことがある』と『読み続けている』の境界を撤廃していたのだが、それは許されざることなのは、もうなんだかひたすらはっきりしている。ついでに言っておくが、まったく読まないのは病気だが、あまり読みすぎるのも、同様に病気である。
 さて、もちろん、あなた達は、先程のパラグラフから、差別的な発言を望むだけ切り出せるだろう。
 しかし、私がこれを、ある種の作品として構成していることにも、また気がついているはずだ。日記が真実を語るとは、私は一切思わない。一度は、あなたも日記をつけたことがあるはずだ。そしてあなたはやめたのだが、その理由は、あなたが、単に、あなたによって改ざんされた記憶を、あなたが体験したことだと書いてらんなくなっただけじゃんね。より一般に、すべての書かれたことには、今のところ、虚飾が混ざっている。私はそれに、あなた達のうちの何人かより、自覚的なだけだ。
 何より、私が書き続けるのは、単に私がどうにかやっていくためにすぎない。よって、あなたたちは僕を無視することができる。私はなんとか切り抜けてきている。私はいるのかもわからない男のことを考える。男の子らしくと言われ、それだけを信じて成長している男の子。鞭が彼の尻を叩くところ。彼が成長した後、私はこう言ってやるべきなのだろうか? 君の価値観はあまりに時代おくれすぎて、君はいっさい口を開くことができない。かくして、私は構造にすべての責任を帰し、しかし、彼を廃人同然にする。あなたと私は、特に疑問に思うことはない。

Tシャツについて

日記

 私がどこにいるのかというと、研究室だ。今日は土曜日。二日連続で飲酒をした次の日。全く何もない日。六月の憂鬱なところは、常に誰かをだましているような気分になるところだ。花の色も変わってしまったことだよ。私が長い雨を見ながら物思いにふけっている間に。
 なんでもいいか。

様々な先送り

日記

 ある種の考え方が、ある集団の中で《暫定的に正しい》と言われるのは、その考え方に対する反論を、その集団の中から、自由に提出することができ、それらの集団が、反論に対して反駁を行うことができ、そして実際にこれらのことが行われるときであり、そのときにのみ、こう言うのだと、私は思うが、多くの場合、この基準は、正しさの概念を使おうとする人にとっては厳しすぎ、使われる側にとってはゆるすぎる。

 とんでもなく長い一文を書いてみようと、私は思っただけだ。(ところで、『私は思う 』という言葉は、何を含意しているのだろう? 『私は思う』ではないことで、それでいて私の中にあるものがある? 感じる等々? 私は言語をあまりにも粗雑に扱うのだが、この理由は、言語が十分に強靭だと、私が……ううん!)私は日本人のように日本語を書きたくはない。私はもっとへたに書きたい。間違えた言葉と厳格な文型を、私は使いたい。もっと少ない言葉の種類を使って私は書きたい。おそらく私は単に書きたい。

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